【報告】愛知大学(樫村愛子、中尾充良、下野正俊) 公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

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【報告】愛知大学(樫村愛子、中尾充良、下野正俊)

2010年4月2日、愛知大学豊橋校舎にて、樫村愛子(愛知大学)、中尾充良(同前)、下野正俊(同前)とともに上映・討論会がおこなわれた(50名ほどの参加)。新入生歓迎の催事が実施されており、満開の桜景色のキャンパスは初々しい雰囲気に満ちていた。

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樫村愛子氏は社会学研究者の立場から、さまざまな目新しい制度が資本主義の趨勢に急速に飲み込まれ、活用されていくなかで、やはり何らかの制度をその抵抗の拠点としていかに確保するのか、と問いを発した。国際哲学コレージュは脱構築に即した「制度を問う制度」であるが、彼女の表現によれば、それは「転移共同体」と形容される。たしかに、デリダの脱構築的な理念を明示的ないしは暗示的に継承する限りにおいて制度が維持されるのだが、だがしかし、デリダからの脱転移が生じる限りにおいて知の伝達と発展が実現されるのである。

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(樫村愛子、中尾充良、下野正俊)

中尾充良氏は、コレージュ・ド・フランスを例にとりながら、フランスの高等教育制度の背景を具体的に説明した。コレージュ・ド・フランスは16世紀に大学の外部に設置された高等教育機関で、国際哲学コレージュと同じく、学位授与権はなく、無償で誰もが学ぶことができる。ただ、あくまでもフランスの学問的権威に特化した機関であること、専門的な業績によって教師が選出される点は国際哲学コレージュとは異なるだろう。

下野正俊氏は、ドイツ哲学研究者の立場から敢えて違和感を表明。コレージュが「哲学とは純粋知ではなく実践である」という方向を目指す場合、哲学の存在意義はどうなるのだろうか。大学の枠内で言えば、医学部や法学部など、いたるところで実践がおこなわれている以上、逆に、実践とは結びつかない知として哲学には何が残されるのだろうか。下野氏は「哲学=実践」という定式に哲学が収斂することの限界と倒錯性を鋭く指摘した。

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また、コレージュがフランスというナショナルな規定性から、場所の規定性から解放されようとするならば、逆説的にも、私たちはこの映画が上映され討論される「いま、ここ」に敏感にならざるをえない。映画のなかで「哲学のない社会は実在する」と語られるが、それは日本ではないだろうか。また、多様な場所における思考の実践について言えば、(西洋)哲学の単数形の普遍性はどのように問い直されるのだろうか。
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[ 2010/04/02 11:47 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

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