2011年2月26日、千駄ヶ谷のBibliothèque(ビブリオテック)にて、『哲学への権利』刊行記念イベントとして、管啓次郎(明治大学)氏と対談「彷徨うこと、考えること」がおこなわれた(約35名の参加)。

管氏は自分の研究スタイルとして、ある作家、ある作品、ある旅、ある人物との出会いを同じものとみなし、同じレヴェルで書き続けてきた。とりわけ旅について書くことは実は難しい。旅の経験を文字にすると、誰かがどこかで書いたことと似ているように感じられるからだ。文字による抽象化は異なる旅の経験を類似させる。自分がどんなに独自の旅をしていると思っていても、それは誰かの反復でしかない、これは旅のエクリチュールにつきまとう試練である。

日常のなかで異質なものに出会ったり、知らないことを知れば人間は傷つき、そこから思考が始まる。とりわけ、異国の人との出会いや外国への旅は最たる傷をもたらすだろう。自分の不慣れな外国語で交流し、生きなければならない状況において、私たちはまるで子供に帰ったようである。それは自分の人生を生き直す経験にも等しい。
この日は岡本太郎の100歳の誕生日であり、その「太陽の塔」で有名な大阪万博の経験が管自身の旅への衝動として回想され……また、2月に亡くなったグリッサンの追悼詩5編が朗読され、このクレオールの作家への想いが綴られ……と管氏の巧みな語りと圧倒的なパフォーマンスが止まらなかった!

管はフィクションよりも日記や紀行、回想などのドキュメントに惹かれるという。それは「重力とともに生きるほかない存在」を記した文章であり、日付(時間)と土地の名(空間)のリズムが刻み込まれたエクリチュールである。私の方はデリダの哲学の活動をドキュメンタリー映画として表現した。文学と哲学におけるドキュメント=生の重力への志向がこの日の対話の通奏低音をなしていたと言えるだろう。
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