2011年2月25日、立命館大学(衣笠キャンパス)にて、椎名亮輔(同志社女子大学)、竹内綱史(龍谷大学)、加國尚志(立命館大学)とともに上映会がおこなわれた(主催:立命館大学文学部 共催:立命館大学間文化現象学研究センター 司会:亀井大輔)。会場の充光館地階のミニシアターは映像学部の創設にともなってつくられたそうだが、映画館並みの画質音質でありがたかった(約65名の参加)。

まず、竹内綱史が本作への違和感をいくつか表明した。表題の「哲学への権利」は仰々しく聞こえるが、哲学する権利を大っぴらに主張するのは恥ずかしいことではないだろうか。本作ではカント以来の哲学の正当化の戦略、つまり、哲学以外のものを正当化するからこそ哲学は重要であるという構図を踏襲しているようにみえるが、哲学はそれほど尊大な営みだろうか。批判や反省、啓蒙のための哲学的な場づくりというが、それらは哲学の専売特許なのだろうか。むしろ哲学は自己中心的な求道にも近いものであり、自分のやりたいことをやっている者がわざわざ権利を主張するのは恥ずかしいことではないか。そして、哲学を表現する映像表現としてきれいすぎる、カッコよすぎるのではないか。

(竹内綱史、椎名亮輔、加國尚志)
次に、椎名亮輔はフランスで国際哲学コレージュに関わった経験を語った。エリック・マルティがアルチュセール論を公刊した時に、コレージュで書評会がおこなわれた。アラン・バデュウはラカン理論を通じた読解は妥当ではないとした一幕があったという。国際哲学コレージュはアソシエーション法によって創設されているが、椎名氏はフランス滞在中に自ら日仏カップルのアソシエーションを立ち上げた経験を述べた。代表者と会計、規約だけでアソシエーションは簡単に設立でき、運営基金や事務所などは必要条件ではない。この自由と軽快さはしかし、組織の脆弱さと表裏一体である。フランスの背景として、哲学のステータスが高いこと、若手研究者の発表の場がないことが指摘され、こうした状況に対するコレージュの意義が示された。

最後に、加國尚志は、ハンガリーの哲学者に対する弾圧を紹介した。政治的・経済的な状況によって〈哲学への権利〉は容易に制限される。そうした状況では、理性を公的に使用する〈啓蒙〉が重要だが、これをデリダなりに引き受ける実践が国際哲学コレージュではないだろうか。また、哲学と国家の関係を考えてみると、「哲学は痛烈な社会批判はするけれども、そうした哲学の立場は認められなければならない」という関係がソクラテス以来くり返されてきた。その際、晩年のフーコーが説いたように、真実を口外することが哲学の主要な根拠になるだろう。

会場からは、「抵抗のための哲学という主張とともに、エンディングで「手をつなぐ」イメージが描かれるのは危険ではないか」「日本において〈哲学への権利〉を主張すべきか」といった質問があった。
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