【アンケート】首都大学東京 公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

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【アンケート】首都大学東京

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今回は、学生から教員や事務員、一般の方に至るまで、実に多くの濃密な内容のアンケート回答を寄せていただきました。学生運営スタッフや拙演習の参加者などは名前付きで、それ以外は匿名で、そのうちのいくつかを紹介させてください。

「私は今回の映画上映・討論会の運営に携わらせて頂きました。前準備では学内のいたるところにポスターを貼り、当日は受付をしていました。西山先生からは100人から150人の来場者数が目標、と聞いていましたが、平日の夕方にそんなに集まるだろうかと正直、不安でした。けれども、17時からぞくぞくと人が入るようになり、結局目標をはるかに上回る210人を超える来場者の皆様におこしいただきました! 受付をしている時は「もうすぐ200人!」ととにかく興奮していました。
 それにしても、「なぜ平日の夕方(しかも雨の日!)にこれだけ多くの人が集まったのか。まず、単純に映画『哲学への権利』への興味関心、認知度が高まっているからだと思います。これはポスターを大量に貼ったから!というより回を重ねてきた結果だと思います。継続するというのは、大変なことでだからこそ「継続は力なり」なのだと感じました。もうひとつは、討論会への興味だと思います。特に今回、「都立大カイカクを経た人文社会系の教員が語る人文学の未来」に興味関心を持って来た方が多かったのではないでしょうか。
 アンケートにも書かれていましたが、映画上映のあとの討論会の意義は大きく、面白いと思います。私も映画も討論も観て聞きたかったー(>_<) 」(大宮理紗子・首都大学生・心理学)

「映画という共有された時間、空間において体験することのできる容器を、それも哲学という題材で、あれほどの人数の人々と共に観ることは新鮮で刺激的でした。『哲学への権利』はコレージュや哲学に向けての問いを発生させる可能性のあるものであり、実際に会場からの質疑を聞くと、その一端が表れているのではないかと思いました。今回、映画を観ていると、抵抗が常態化してしまうと、その抵抗は硬直し、イデオロギー化してしまうのではないかという危険性を感じ、また、求められるべきは、絶え間ない運動であり、そして、その運動の場が発生する可能性を失わせないことであり、場と人というのは相互作用的なものだということを忘れないことだと思いました。また、上映前の贅沢な時間は本当にワクワクしました。」(平山雄太・首都大学生・仏文学)

「討論会では、先生方の「知」や「教養」への態度が意外にもほとんど同じだと感じられたのは興味深かった。普段の授業ではなく、あのような場だからこそ浮かび上がることだと思う。哲学や思想とは、知識や内容ではなく態度が大事なのだと教えられた気がした。」(櫻田和秀・首都大学生・哲学)

「東京都立大学の人文学部は、一定の時期まで輝きを放っていたと思うのですが、首都大になる前後のごたごたで、この間、やはりある種の諦念などから来る沈滞ムードに覆われがちだったように思います。今回の上映・討論会は、そういう状況を打ち破る一つのきっかけとなったのではないかと思い、個人的には大変にうれしくありがたく思いました。」(飯村学・首都大職員・管理部教務課)

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「今回の討論会においては、2つの点が印象的だった。「映画が映画たりうる条件とは何か」という問い。哲学研究として撮られた映像が「映画」として存立するための条件。福間先生の「これを撮らざるを得ない何かがあった」という言葉には感動を覚えた。
 また、哲学(と)教育、教養に関する議論。「感染的模倣」(宮台先生)から、「知への愛」(西山先生)への変化をいかにして作り出すか。教養とは、自分なりの形を作り、その形を壊すという往復を繰り返すことではないか(西山先生)という指摘には共感した。
 人文学を勉強する一学生として、大学の、人文学の危機は他人事ではない。しかし、映画上映会やゼミナール等の参加を通じて、国内外の研究者の方々、忙しく働く中でも勉強を続ける社会人の方、同じような思いや疑問を抱いて勉強するたくさんの学生との出会いがある。皆でテキストを読んで議論すること、映画を見て討論することに、実用性がないとは思わない。大学がそのような「場」を生み出せる制度であることが重要だと思う。」(犬塚佳樹・東京外国語大学生・フランス語)

「今回、なんの予備知識もないまま見させていただいたので、初め、国際哲学コレ―ジュの紹介映画と思ってしまったのが率直な感想です。哲学という言葉の意味すらも明確に説明できないせいか、どうしてもコレ―ジュとはなんたるか。を観賞中考えてしまいました。改めて、それと哲学を結びつけると、やはりそれはフランスという場における哲学への特殊性を思い浮かべてしまいます。ですから、映画の中で、もっと国際性の豊かな講師陣にすることが将来的な目標であるとおっしゃっていた人の意見には、とても納得するところがありました。討論会はおっしゃっていることが幾分難しく、理解にはほど遠く感じましたが、なぜか飽きのこないもので、楽しかったです。」(山下竜生・首都大・人文社会系1年生)

「この映画に出会うまでと出会ってからで変わったことがあるかと問われれば、それは生涯をかけて哲学と何らかの形で向き合う勇気を持つことが出来たこと。劇中に浮かび上がる多様な論点の中で各々に訴えてくるものがあるだろう。それを問うこと/問い続けることを通して、みずからの"哲学への権利"を行使していくことは出来ないだろうか。一人の人間として生を全うしていく中で、何だか漠然と、しかし不思議な魅力を持つこの得体の知れない大きなそれ。哲学。目の前に現れた時に怖気づきそうになっても、両手を広げて待っているのだから後は飛び込めばいい――この映画が静かに強く語りかけてくれる。」(南唯利・東京外国語大学生・フィリピン語)

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「5人もの教官が議論する、ということで討論会は映画そのものに劣らず白熱した。特に岡本先生の、映画中に語られる哲学への根本的な批判はその内容のラディカルさだけでなく、学問に対する真摯な姿勢が印象的だった。ただ、討論会において学問的な話に重心が据えられて、大学制度そのものを問い直すような議論にまで発展しなかったのは残念である。これは時間的な制約もあるだろうし、逆に言えば時間が足らないほど充実した討論会だったとも言え、参加者として興奮した一夜だった。また、客層が幅広く集まったのはひとえに人文学の間口の広さを表していると思う。聞いてもらわねば、来てもらわねばという危機感は、単にネガティブなものでは決してないと再確認できたと思う。」(八木悠允・首都大学生・仏文学)

「2010年は、国際的な人文学の制度的危機を痛切に感じた1年だったが、その最後に自分の所属する大学で先生方の学問に対する情熱を傾聴できたのは、まさに私にとっても「生き方を変える」体験となるだろうという予感を抱いた。一方で、東京都立大学が解体され新たに首都大学東京が設置された経緯のうちで、教員達が感じたであろう学問の制度的な問題に関しても議論が深まればよかっただろうと思う。というのも、宮台氏が述べるような高等教育の縮減において問題となるのは制度の維持であろうし、2010年に感じられた「人文学の危機」はほとんどこの、「人文学にも研究の制度が必要であれば、その制度を誰が保証するべきなのか」という問題に向けられていたからだ。討論会では、デリダ的実践はデリダを特権化するものではないという議論が交わされ、哲学という知の実践の無条件性がむしろ肯定されていたが、他方で制度的にしか保持できない知があるのであれば、それを我々がどのように引き受けるのかという問いは残されたままだったようだ。その点で、私はあの場に歴史学を専攻している先生方が登壇していなかったのを少し残念に感じた。」(木本周平・首都大院生・哲学)

「今回の討論ではそれぞれの先生から専門性の深い考察をいただいたことで、国際哲学コレージュの志向する哲学は、英米系の数理哲学やプラグマティズム、また社会学と、さらにテクストだけでなく映像という媒体とも、問題意識とビジョンを共有していることが確認された。それは体験を通じた成長、前提を揺るがす知 、出来事を促す、他者への関わり、内発性、内なる光の伝達、真理を求め自由の現れる場をつくるなどと表現された。それは大学の使命であると同時に大学制度の限界を顕にもする。『哲学への権利』の次の課題は、こうした隣接部門との差異を認知しつつ独自の専門性を深めて表現することではないだろうか。自らの研究分野でさ らに研鑽してから再度先生方とお話してみたいと思った。
 ところで、もし理系の先生がいれば、「知への愛から人への愛」という経路もあることを、また産業界の人であれば、「利他的なものへの情動」は教育の場だけでなく社会のあらゆる場面で涵養されることを主張したのではないだろうか。」(大江倫子・聴講生)

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「今回、「哲学への権利」上映・討論会に参加して、哲学を難しく考える必要はないのだと思い知らされた。どうしても、「哲学」と聞くと難しく考えすぎてしまう。それが普段の授業にも影響し、私は難しいものをなんとか自力で理解しようとしている部分があった。しかし、哲学は触れる角度によって違う学問にもなるのだ、という話を聞いて、肩の力が抜けたように思う。考えに煮詰まっても、別の角度から眺められる柔軟さを身に付けていきたいと、討論会を聞きながら思った。
 また、普段の授業と違い、今回のような討論会だと、同じものでも触れる角度が異なると、どのように見え方が違うのかということがはっきりと見えたので面白かった。勉強するって本当に面白い、世の中にはまだまだ自分の知らないことが沢山あって、それを少しでも多く吸収したい、と私にとっては改めて気合を入れる機会になった。」(川野真樹子・首都大学生・表象言語論)

「石原改革の嵐の中、大変ご苦労があったことが石川先生の発言から推測された。そんな中でも、希望が示され幸いである。200人を越える来場者には驚いた。また先生方の周りでミメーシス(感染的模倣)が起こっているであろうことも感じさせてもらえた。
 映画のご批判に関してだが、「哲学の権利」という映画は、映画単体で理解すべきでないと思う。不特定多数参加の移動ゼミ的側面があり、映画は良くできたレジメ、場と出来事の創出こそ本領。上映後の討論、飲み会、そこでの議論は、たった数時間の出来事が、数ヶ月に感じる事もあった(今回で10回目の参加です)。映画を通じた出会いは人生を違うものにしてくれている。出会った仲間とフランスにも行った。社会企業家への歩みも決めることになった。これからしばらくは、この映画と、西山先生そして仲間たちと、未来をつくる旅を続けてみたいと思っている。」(奥山浩通・会社経営)

「映画を上映後に必ず討論会を設けていることにこそ価値があると感じた。もし映画上映のみならば個人的に消化せざるをえない問題が、つまり問題が暴露されるに留まるものが、討論会が設けられていることで、5人の登壇者らの話を聞きながらその問いが化学変化する場になっていた。
 討論会では、「人文学に未来はあるのか」のテーマのもとに、プラグマティックな学問とは何であるのかという話題に展開した。「哲学が何の役に立つのか」、その問いに普遍的な答えはないと思うが、われわれに突きつけられていることは、それが哲学でなくとも、いかに学ぶか、何に役立たせるか、それ次第で大きく変わるということである。そう言ってしまうと無責任に聞こえるが、実際にそれに尽きると思う。その意味で、哲学とは何かを問うものではなく、何かへの問を喚起するものであると改めて思った。重要なのは、それらが「何である」のかの問いに立ち止まらずに、それらに「いかに」立ち向かうかであると思う。
 今日の大学の制度的なものに問いを喚起するコレージュの例をきっかけにした「大学に未来があるか」の問い対して、「ある・ない」の論争に終始するのはナンセンスである。これは大学に関わるすべての人の立ち向かい方によるのだと、そのあたりまえのことに気づいた有意義な機会だった。つまり、それをどう実現して行くかは自分次第ということである。」(坂元小夜・首都大院生・表象文化論)

「この大学にとって大変意義ある会でした。この大学に学ぶ意志のある人々が集えたこと、うれしかったです。そして、この大学の中には皆の希望が潜んでいます。この会は皆の希望を照らしました。」(加藤洋子・首都大職員・学生サポートセンター)

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「新しい組織を立ち上げ、様々な背景の人材により活動することについて、デリダの信念を貫く勇気に感銘を受けました。私は今年、大学の事務職員に就職しましたが、教育機関として奥行きのある場となるよう働いていきたいです。」

「岡本先生がおっしゃる「各分野の先端では十分に哲学がなされている」という点は、たしかにそうだと思うのですが、聞く側からするとso what?という印象です。そこに「哲学」がどのようにあるのか、あるいは、そこで何がなされているから「哲学がある」と言い切れるのか。その説明がなければ「煙に巻かれただけ」という感じです。ただし、そこで観察される運動が「哲学」ならば、それを説明する際の枠組みや参照点は、やはり従来の「哲学的なもの」に依拠すべきだろう、と個人的には思います。「哲学を哲学する」とは、もしかしたらそういうことでは?」

「映画はインタヴューの連続に圧倒されてしまったが、討論会で様々な視点を提示されることで、自分のなかでまとめ切れなかった内容をフィードバックしてもらえた。実際にコレージュに通う人は「抵抗」の意義をどのくらい意識しているのか。」

「とても熱く楽しい時間でした。デリダの運動を真面目に継承している大人がいるなんて、世界はまだ捨てたものではないと勇気をいただきました。」

「映画の後で討論会があることに大きな意味がある。映画のなかで語られていることを受け取るだけでなく、自分のなかで問いが生まれるという経験ができた。何が哲学で何が哲学ではないかということはあまり重要ではない。制度的なものののなかに安住しないこと、緊張関係のなかに身を置くことを避けないことといった、あらゆる立場の、あらゆる学問分野のひとに付きつけられている呼びかけだった。」

「フランスの美しい街の様子やフランス語の流暢な語りは映画の質を高めていたように思うが、背景のブレや雑音、英語のBGMは興醒めでした。映画としてもう少し質を高めてもらえると、もっと多くの聴衆に受け入れられるだろう。」

「出演者がみな個性的で魅力的な人物として映し出されていて感動した。ただ、全体的にノイズが気になった。インタヴューアーの相槌は極力少なくした方がよい。手のショットはブレッソン映画へのオマージュだろうか。」

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「映画の内容を納得しながら観ていると、討論会で覆される。では自分はどう考えるのかと思い始め、二重三重に考えさせられた。」

「映画の先生方はデリダの哲学や枠組みの議論に終始していて、現実の社会のなかでそれがどういうことを意味しているのかについて議論が足りないのではないか。」

「なんとなく、フランス人は抽象的な思考が得意そうだということはわかった。それにしてもよくしゃべるなー。日本人は議論が苦手だとよく言われるが、私が映画に登場するフランス人と対等に議論するには相当訓練が必要だろう。」

「私は素人ですが、コレージュに参加してしまったような気分です。しかも、まったく眠くならなかった。哲学という分野をどのようにとらえるか。分野と言ってしまうとそもそも間違いなのか。哲学とは何かを考えました。」

「哲学を活動として語ることと、それをまさに実行することのあいだには落差がある。映画の哲学者たちは前者の態度に尽きているように見えたが、実際には、それを契機に、ある種の「活動」が生まれたようにみえた。」

「日本の大学は哲学と親和的だろうか。学びの場としての大学キャンパスはどうだろうか? 私の勤務先大学では、ある日、ソクラテスが入校して対話を始めたら、たちまち警備員に拘束されてしまうだろう。」

「根源的な何かに近づこうとしつつも、無防備に近づこうとする粗野を言葉の力で押しとどめる。そうした静かな、しかし強い抑制が全体を貫いている印象を受けた。それが心地よくもあり、もどかしくもあった。」

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「大学での哲学はどこか仙人的なところがある。やっている本人たちはそれでいいのかもしれないが、社会的には大きな危機にある。そうした状況において、国際哲学コレージュのような場は必要で、希望だと思う。」

「この映画を拝見するのは3度目で、今回も新しい発見があった。ただ、この映画を観て、哲学の意味や敷居を高くしてしまった方もいるのではないか。」

「まさに硬派の映画に息を飲んで視聴することができました。さすが仏国の知の伝統の厚みをしみじみと感じました。有限な物質を浪費していく人類の不安に、無限の知が立ち向かう姿を感じました。無限な「ことば」の構築をこの映画が描いているのでしょう。」(66歳男性)

「この映画を貫くテーマは「流動性」だと感じました。換言すれば、自己言及的な何か、自己反省的な何か。それは自己肯定と自己否定の共存であり、それを通じた自己変容であり、哲学とはそうしたものかもしれない。」

「「知の制度化に抵抗するための制度」という理念にとても共感を覚えました。制度がいったんできてしまうと、共有される知識が限定されてしまう。大学で美術教育を受けた私はそう思いました。〔…〕私としては、美術という制度から自由になり、無条件に好き勝手なことをやりたいわけではない。歴史や制度という要因を踏まえながらも、流動性をつくり出し、新しい表現を模索したい。」(美術大学卒業生)

「国際哲学コレージュは雨漏りのような存在になりたいのだろうか。さまざまな要素を含んで降った雨が、建物という牙城のすき間をぬって漏れ出してくる。ただ降り注ぐだけならば、踏みつけられ、乾いて終わってしまう。しかし、それを人工的にバケツでもって集めて、人が避けて通るものにする。本作は、バケツに溜まった水をその後どうするのか、という話だ。」

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[ 2010/11/17 20:03 ] 参加者のアンケート | TB(0) | コメント(-)

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