【報告】首都大学東京(福間健二、石川知広、岡本賢吾、宮台真司) 公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

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【報告】首都大学東京(福間健二、石川知広、岡本賢吾、宮台真司)

2010年11月17日、首都大学東京(南大沢)にて、福間健二(同大学・表象言語論)、石川知広(仏文学)、岡本賢吾(哲学)、宮台真司(社会学)とともに、映画上映・討論会が実施された(人文・社会系FD委員会部会主催)。冬の訪れを告げるような肌寒い小雨模様の天候で、都心から離れた八王子市南大沢での開催だったが、これまでで最高の220名ほどが参加した。実際の準備運営は私と数名の学生らで実施され、その共同作業もまた楽しいものだった。

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討論では、まず監督の西山から、日本、アメリカ、フランス、韓国などをめぐって今回が40回目の上映となることが告げられ、デリダの脱構築が国際哲学コレージュの特徴に即して説明された。

石川知広氏は、かつての東京都立大学の仏文学研究室ではデリダ研究者として足立和浩がいたが、時を経て、やはりデリダ思想を研究する西山が就任したという歴史的経緯を述べた。石川氏によれば、大学には真理と自由が不可欠で、その点では、首都大の図書館壁面に刻まれたヨハネ福音書(8:32)の文句「真理があなたがたを自由にするveritas vos liberabit」は的を射ている。

ただ、この場合、真理とはむしろプラグマティックな真実と言うべきかもしれない。私たちが思考し生きようとする努力の結果として真実は浮かび上がってくる。社会のなかで真実が歪曲されたり隠蔽されたりするなかで、大学の役割と使命は真実を暴いていく点にある。学問的探究はまさに、判断にもとづいた一時的な真実の蓄積であり、それが研究者自身をひいては社会を自由にするのである。

岡本賢吾氏は、「私自身は英米系の分析哲学の研究者に分類され、デリダの敵対者に映るかもしれない。しかし実は、分析哲学のイデオロギー的な諸規定には反対で、むしろ論理学や数学の哲学を幅広く研究している者である」と自己規定から話し始めた。

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本作は映画としては予想以上の出来だったが、しかし、インタヴューィーが展開する紋切り型の哲学観の古さは如何ともしがたい。自らの紋切り型を脱構築することから始めないといけないのではないか。というのも、論理学、数学基礎論、計算幾何学など、現場で先端の理論形成に携わっている人々がまさに哲学的な探究をおこなっているからだ。彼らは、例えば、「無限というものは完結したものか、それとも生成途上にあるのか」といった問いに取り組み、隠れた概念を探し出し、研究の方向性を模索している。なるほど、大学制度におけるタコツボ的な哲学は危機に曝されているかもしれないが、しかし、別の場所で現実に哲学はたしかに進展している。よって、本作で語られている、グローバル資本主義下における哲学の危機と抵抗という見方はきわめて無責任で、政治的にはマイナスである。

宮台真司氏によれば、この美しい映画からはフランスの知識社会学的な文脈がよくわかる。つまり、岡本氏が指摘した、ある種の勘違いが社会的な抵抗を受けずに生き延びることができることがうかがえる。それゆえ、コレージュのような場所でデリダの脱構築が特権化されることに危惧を覚える。

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本作を観て、宮台氏は自身が開いている私塾のことを考えたという。誰かが学ぶとき、たんに知識を獲得したいのではなく、体験を通じた成長の方が重要である。かつては大学にも名物教員がいて、学生が模倣したいと思える対象になっていた(「模倣的感染」)。宮台氏は大学や私塾での教育を通じて、学生が体験を通じて構え(エートス)を習得し、自己の組成を変えていく試みを続けたいとした。

また、宮台氏は哲学と社会学にはよく似ているところがあると指摘。哲学は「暗黙の前提から自由になる」ことを目指し、社会学は「われわれを不自由にしている暗黙の前提がいかに社会を構築しているのか」を解明する点で両者は表裏一体だとした。デリダの脱構築はルーマンのシステムや再帰性と似たところがあり、それは「さまざまな前提を自覚的に配慮し受入れつつ、これを信じない」という終わりのないプロセスである。

映画監督の福間健二氏は、「映画が今ここにあること」について語りたいと口火を切った。外国に行って対話や交流をした結果が研究者の著作となることはあるが、今回は映画作品となり上映運動になり、出来事を生み出してしまっている。しかも、これは最近の傾向だが、家庭用のデジタル・ビデオカメラで低予算で映画作品ができてしまう。その意味で、ひとりの研究者が独特の映像センスによって映画を製作し、巡回上映をおこなっていることはなかなか感動的である。

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福間氏は首都大の歴史にも触れ、都立大学の改革においてまさに制度というものが教員に対して力をふるった経験をほのめかした。しかし、それでもなお私たちが教員を続けているのは、単位やカリキュラムなどの制度的条件に拘束されつつも、それらを超えた〈条件なき大学〉(デリダ)を思い描いているからではないか。少なくとも、人文・社会系の教員なら、誰もがそうした大学像を頭のなかにもっているのではないか。ただし制度的な現実と理想の大学を乖離させておくのではなく、両者を架橋する実践がやはり必要で、そのための具体例として本作から刺激を受けた、と福間氏は語った。

その後も登壇者のあいだで討議が続き、会場からは「哲学と日常生活の関係は?」「普遍的な真理は存在するのか?」「基礎研究の存在意義をいかに説明すればいいのか?」「文系の学生はどうやって数学の哲学に取り組むべきか?」「〈誰かへの愛〉と〈知への愛〉の相違とは?」などの質問が学生から相次いだ。

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今回は首都大生だけでなく首都圏の学生、本学の教員や事務員、一般の方など、遠方では山口や秋田から多くの方々に足を運んでいただいた。懇親会も盛り上がり、学生十数名とは朝まで打ち上げが続いた。首都大学東京の人文社会系にもまだまだ学問的な希望があるということを、他ならぬ学生たちの熱気が証明していた。
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[ 2010/11/17 16:54 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

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