【報告】韓国・延世大学(金杭、金洪中、羅鍾奭、藤田尚志) 公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

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【報告】韓国・延世大学(金杭、金洪中、羅鍾奭、藤田尚志)

2010年9月28日、延世大学にて、金洪中(キム・ホンジュンKim Hong Jung,ソウル国立大学)、羅鍾奭(ナ・ジョンソクNa Jonseok,延世大学)、藤田尚志(九州産業大学)とともに、金杭(キム・ハンKim Hang,高麗大学)の司会で上映・討論会がおこなわれた(主催:延世大学韓国学術研究院。70名ほどの参加)。

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今回の主催団体・延世大学韓国学術研究院に触れておこう。韓国学術研究院は韓国政府が主導する18の人文学系高等研究院の重点的支援「韓国人文学(Humanities Korea: HK)」事業のひとつである(年間支援総額200億ウォン(約24億円)、支援期間10年)。韓国では1999年、「BK21(頭脳韓国21世紀事業)」の第1期7か年計画(1999-2005年)が開始され、年間2500億ウォン=約250億円(韓国学術史上、最大規模の研究助成額)が投入され、69プロジェクトが選定された。しかし、BK21は理・工・医系に偏っており、人文社会系が1割程度の採択率にとどまったことへの批判が高まった。そこで、第2期(2006年-)では別枠で新たに「韓国人文学(HK)」事業が打ち出された。HK事業では、若手専任研究員を雇用する人件費を保証すると同時に、10年後の事業終了時には大学の自己努力で彼ら若手を大学の正規教員に組み込むことを条件とする点が特徴である。韓国学術研究院は人文学の危機の克服を目指し、新たに「社会人文学」の地平を構想している。(ちなみに、日本の科学研究費補助金の場合、人文社会系の予算の割合は20%弱。日本でHK事業に相当するものはCOEプログラム〔2001年-〕であろうが、人文系は拠点数12、予算10億円程度と規模は約半分である。)

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(左から羅鍾奭、金洪中)

金洪中氏は、西山と同時期にパリのEHESSに留学をしており、同じ教室でデリダの講義を受けていたという同時代性から語り始めた。映画については、コレージュの教室風景がなく、表札一枚という物質的現実しか映っていない点を指摘。さらに、西山がブランショ研究者であることを考慮して、推測的な仕方で批評を進めた。ブランショはヘーゲル的な弁証法に対して実在物の不在に力点を置く。だとすれば、西山の映画もまた、現実の不在の現前、物質の非実現化との終わりなき対話なのではないか。

藤田尚志氏は、本作の印象を、1)表現手法の旅、2)表現内容・表現主体の旅、3)上映運動という旅という三点から語った。1)思想研究者が文章ではなく映像作品を試みることで、奥行きのある表現手法となっている。2)日本人の研究者がフランス人と対等に対話をし、問題点を引き出している。3)本作は上映運動の形で旅を続けているが、それは作者・西山をも後押しする哲学の根源的な力ではないだろうか。

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(中央・藤田尚志)

ヘーゲル研究者の羅鍾奭氏はコレージュの試みに共感すると同時に、自分なりの哲学擁護を発見することができた、と告白。デリダはヘーゲルの敵だと思っていたが、本作を観て、複雑な仕方でデリダはヘーゲルの同伴者であることが分かったとした。哲学を何かから擁護するとはどういうことだろうか。哲学をその外部から守るというよりも、自分自身で思考する、共同で思考することこそが哲学擁護の本質ではないだろうか。

羅鍾奭氏はさらに、ポストモダン思想はロゴス中心主義を推し進める余りに隘路に陥っている、と批判。無条件性や歓待といったデリダ特有の曖昧さや危険性を回避するために、主体の形成の問題は必然的である。学問の運動性に固執してはならず、制度の組織化と結束力、規律、そして倫理的主体といった主題を忘れてはならないとした。

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(右端・金杭)

金杭氏の見事な司会によって、フロアとの質疑応答は上手く展開された。「自由なブルジョワ、自由なプロレタリアが人文学の学びの場を発展させてきたとすれば、デリダがいう哲学とは誰のためのものなのか。」「〈哲学への権利〉というからには、国家や資本によって奪われている権利なのか。奪い返すべき権利なのか。」「国家の補助金を受けならが自律性を維持するなかには、おそらく熾烈な戦いがあったはずではないか。」さらには、市民団体の方からは、「潤沢な国家補助を受けているHK事業は市民との対話を尊重しているのだろうか」という言葉も飛んできた。神戸大学の院生・人見勝紀さんは、「日本と韓国はともに儒教を知的基盤とし、近代化以降は西欧化にさらされたのだが、こうした歴史性を今日の討論会はどう体現しているのか」と問うた。

韓国学術研究院の院長・白永瑞(ペク・ヨンソ)氏は、本作を観て、韓国の歴史学者のドキュメンタリー映画を製作したくなったと告白。制度の問いに関する映像作品化という発想はこれまでの大学人にはなかった。今回をきっかけに、映像も含めて学問の制度の歴史を検討する学術イベントを積極的に開催するとした。そして、大学制度とも純粋な学問とも異なる「運動」とはいったい何か、と疑問を投げかけた。

藤田氏は、運動としての学問、制度としての学問は対立関係とされてきたが、20世紀の後半以降、とりわけ「脱構築」思想を通じて、両者の相補的な関係が浮き彫りになってきたのではないか、と応答。つまり、運動にも制度的傾向があり、制度は運動の契機を孕むのだ。また、藤田氏によれば、「誰の権利か?」という問いそのものが再考されなければならない。規定の主体から問い始めるのではなく、主体の場や根拠を問い直すことが重要であり、これが「哲学への権利」に込められた含意であると作者・西山の意図を明確にした。

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[ 2010/09/28 01:55 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

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