人文学の旅 公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

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人文学の旅

旅に次ぐ旅――この3週間、香港、北陸、神戸と週末毎の上映ツアーを実施した。首都大に就任する前に組まれた日程だったのでやってみると意外に大変だったが、平日は休まずに首都大の教壇に立った。まず第一に、当然ながら、こうした課外活動を言い訳にして大学での教育をおろそかにしてはいないか、と自分に問う。なるべく休講にしないことはもちろんだ(香港出張の際は大学から香港に飛び、深夜便で帰路について羽田空港から月曜早朝に出勤した)。さらに、高額の授業料を支払い税金で運営されている大学である以上、講義やゼミに誠実に取り組んでいるか、と自己点検をする。そのような旅の合間の6月30日、着任したばかりの首都大学東京でゼミ拡大版として大学論イベントを実施し、とても充実した会となったことは大変な喜びとなった。

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(香港中文大学にて)

香港の国際会議で本橋哲也氏は、エドワード・サイードの「旅する理論(Traveling Theory)」(『世界・テキスト・批評家』所収)を参照しつつ、カルチュラル・スタディーズと日本の場所性について歴史的・政治的・学問論的な分析をした。その発表原稿から引用させて頂くと、「サイードによれば、思考や理論の循環は「人から人へ、状況から状況へ、ある時代から他の時代への旅」として捉えることができる。サイードはその旅を「原点」、「他の時期と場所への通過」、「理論や思想を迎える際の受容や抵抗の条件」、「新たな使用による変革」という四つの局面に区分する」。

サイードならではの的確な分析だが、言葉を付け加えると、理論が旅するためには既存の「制度」もまた旅の途上にあらねばならない。大学という制度もまたそのオルタナティブな余白の場との相互関係において活性化され、数々の出来事(イベント)と出会いを誘発しなければならないだろう。私が映画上映を続けるのは、見知らぬ力を人々を巻き込みながら、制度が旅に出ることを期待してのことである。

とりわけ人文学に必要なのは、こうしたさまざまな場での活動と国内・国際的なネットワーク形成だ。私はこのことを東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」での仕事を通じて学んだ。既存の学部学科の制度を超えて、国内外の人々が力動的に交流するにはどうしたらよいのか――その活動性に人文学の未来像が賭けられており、そしてそもそも、そうした動的な知のあり方が大学の原像であったはずだ。

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(石川県西田幾多郎記念哲学館にて)

大学の人文学研究者がタコツボ的な態度で孤立した研究教育を続けている限り、「人文学なんて結局、趣味的な探求では?」「図書館とネットがあれば、在野で十分で、大学の人文学なんて必要ないのでは?」といった問いに対する的確な回答はない。人文学こそが制度内に安住することなく、その固有の制度を旅の経験にさらさなければならないだろう。さまざまな活動の場を柔軟な仕方で探し求め、国内外の人的ネットワークを展開させる限りにおいて、人文学は個人的な趣味などではなく、そして、その動的な最大拠点として大学は必要である。「条件なき大学は、当の無条件性が告げられうるいたるところで生じ=場をもち、自らの場を求めるのです。この無条件性が、おそらく、(自らの)思考をうながすところならどこにでも。ときには、おそらく、「条件」という論理や語彙を超えたところにさえ。」(ジャック・デリダ『条件なき大学』)

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(神戸市外国語大学での討論会)

今後も映画上映などの課外活動は継続されていく。無理な日程は避けたいところだが、仕事の依頼があれば応答せざるをえないし、そもそも、応答したいと思う。それぞれの現場で、さまざまな人の苦悩や葛藤の息遣いが感じられる距離感で、人文学の現状と展望をめぐって誰かと共に思考し続けたい。
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[ 2010/07/04 22:54 ] その他 | TB(0) | コメント(-)

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