【報告】新潟大学(逸見龍生、番場俊、城戸淳、宮崎裕助) 公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

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【報告】新潟大学(逸見龍生、番場俊、城戸淳、宮崎裕助)

2010年6月25日、新潟大学にて、同大学の逸見龍生、番場俊、城戸淳、宮崎裕助(司会)とともに上映・討論会がおこなわれた(新潟哲学思想セミナー主催。45名ほどの参加)。

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番場氏はきわめてコメントが難しいと留保しつつ、独特の距離感でもって言葉を紡ぎ出した。一方で、デリダの仕事は素晴らしいと肯定しうるものの、だが他方で、フランスはやはり恵まれているのではないかという冷めた感想を抱いてしまう。日本の大学の制度運営において、積極的な役割を果たしてきた番場氏はある種の徒労感を告白しながら、大学に広がる荒廃を示唆した。また、最終場面の監督のナレーションに触れ、日本人がフランス語で語る必然性はあるのか、むしろ日本語での素朴な語りが挿入された方が、「国際」哲学コレージュの映画作品に相応しかったのではないか、と指摘した。

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(番場俊、城戸淳、逸見龍生)

カント研究者の城戸氏は『学部の争い』に言及し、18世紀に下級学部たる哲学部が上級学部(神学、法学、医学)に対して真理への権利を担っていたことを想起。コレージュはこの種の啓蒙の精神を現代的に引き継ぐのではないかとした。実際、当時の哲学部は博士号授与権をもたなかったという点でもコレージュと共通している。その上で、日本のかつての教養学部の哲学が果たしていた役割は意外と重要だったのではないかと敢えて回顧的な口調で語った。また、哲学が古代ギリシアを起源とする西欧的な限定性をもつことを確認し、コレージュは非―哲学的なものをどの程度歓待することができるのかと問うた。

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18世紀研究者の逸見氏は、フランス語のphilosopheやphilosopherが「哲学者」「哲学すること」という日本語訳には実はそぐわないと繊細な指摘をした。むしろ大学制度の外で哲学活動は実践されてきたのであり、それはドイツの伝統的なイメージをともなう「哲学」とは大きく異なるものだろう。コレージュはアソシエーション(市民団体)であり、それは市民の自発的な連帯によって生まれる活動である。人文学が新自由主義的な趨勢に巻き込まれるなかで、そうした哲学の権利の市民的な行使はいかなる効果を発揮するのか。逸見氏は最後に「抵抗」に着目し、本作で示される抵抗の言葉が哲学の別の分身を、啓蒙の別の分身を創造するのではないかと述べた。

新潟大学での討論はパネリストの方々の鋭いコメントによってたいへん充実した会となった。各人が大学における苦悩や葛藤から問いや言葉を発していたからであろう。深く感謝する次第である。

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(宮崎裕助〔左〕)

上映会には、30代で無職のSさんも参加され、懇親会にまで残ってくれて、深刻な身の上話をしてくれた。期間従業員としてマツダ工場で働いたこともある彼は、最近同工場で起きた無差別殺人が他人事と思えないという。Sさんは人文学と出会い、人文書を読むことで何とかぎりぎりの精神状態を維持している。しかし、本当に生きるか死ぬかの生存状況にいる人々にまで人文学は届くのだろうか。人文書の読書がささやかな生存の糧になっているSさんの切実な言葉には、今後も続く映画上映のなかで、何度も立ち返ることになるだろう。
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[ 2010/06/25 23:57 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

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