2010年4月23日、一橋大学にて、鵜飼哲(一橋大学)氏とともに、大学院言語社会研究科の主催で上映・討論会がおこなわれた。鵜飼氏と二人でカトリーヌ・マラブー氏の講演会を2005年に開催したことのある学内施設・佐野書院にて実施されたこの会には、濛々と煙る冷たい春雨のなか、高校生や一般市民から教員まで110名ほどが参加した。
一橋大学大学院言語社会研究科は私が鵜飼氏のもとで博士号取得まで6年間を費やした場所であるだけに、今回のイベントには感慨深いものがあった。神戸から東京に出てきて、修士課程に入った頃のことが思い出された。本作はデリダが創設した国際哲学コレージュを描いているが、鵜飼氏は80年代、私は2000年代にパリ留学中、コレージュで学び、デリダのゼミに出席していた。教師と学生、教育と研究、これらの諸条件を可能とする学校制度をめぐって、一橋大学で鵜飼氏と議論することは、それゆえ、私にとってある種特別な経験である。
鵜飼氏によれば、〈誰もが学べる権利〉はすでに70年代にパリ第8大学で実現していたが、83年にミッテラン政権下の目玉として創設された国際哲学コレージュではさらに、〈誰もが教える権利〉が保証されるように構想された。実際、鵜飼氏が留学当時、マラブーやアブデルケビール・ハティビなどの気鋭の若手が教鞭をとっており、コレージュがなければ出会わなかった人たちがたくさんいたという。
コレージュは脆弱で周縁的で、しかし柔軟な場とされるが、そうした制度的特性がハティビのようなモロッコの研究者にもゼミを開講する機会を与えていた。ハティビは「いまのフランスで、コレージュほど研究教育にしっかりと従事できる場所はない」と語ったことがあるという。鵜飼氏の鋭い指摘によれば、80年代初頭、第三世界や旧植民国への関心があり、コレージュは「南」へと開放されていたが、25年を経て、欧州連合が形成されるなかで、むしろ「東」への開放へと力点が移ったのではないか。だとすれば、コレージュが謳う「国際性」はどの程度ヨーロッパ的な限定性を帯びるのだろうか。
鵜飼氏は最後に、マラブーによる「思想の警察la police de la pensée」という表現に触れた(映画字幕ではこの表現は直訳されていない)。社会での支配的な考え方からずれていくこと、つまり、「思想の警察」による取り締まりに抵抗することがコレージュの存在意義であるだろう。私たちの頭のなかにすでに幅を利かせ、「これこれのことを考えてはいけない」と命じる「思想の警察」に抗して、集団的に討議し、問題提起することが重要なのである。
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