2010年12月15日、首都大学東京(南大沢)にて、ゼミ公開拡大版「笑いとは何か?」が開催された。通常のゼミメンバーに加えて、社会人や都内の複数の大学生ら20名ほどが集まった。
まず、大宮理紗子(心理学専攻)さんが、発表「大きな笑いへの小さな考察」において、笑いに対して多角的かつ的確な考察を加えた。動物は現実と密着して生きる動物とは異なり、人間だけが世界を対象化して笑う。笑顔は人類共通のコミュニケーション手段である。しかし、笑顔は少しの変化でグロテスクな表情に映り、恐怖や怒りを表わすことがあり、実は非常に微妙な身体表現である。
笑いはその原因とともに分類され、①「快の笑い」(生後一カ月の乳児が授乳後満足して出る人間の基本的な笑いから成長とともに発展した笑い)、②「社交上の笑い」(人間関係を円滑に行うための技術としての笑い)、③「緊張緩和の笑い」などに大別される。 これら三区分はさらに細別され、「本能や期待の充足による笑い」(おなかいっぱい! 課題をやり終えた!)、「優越の笑い」「不調和の笑い」「価値逆転・低下の笑い」(飼い猫に無視される…)、さらには、「協調の笑い」(あいさつ笑い、つられ笑い)、「防御の笑い」「攻撃の笑い」(ブラックジョーク)、「価値無化の笑い」(笑ってごまかす)などが考えられる。これらの分類は単一的ではなく、通常は複数の要素によって笑いは生じるだろう。
「笑い」は、一人の世界の中では生み出されえず、つねに他者を必要とする。そして、誰か、何かとの関わりの中(それは恐怖体験かもしれないし、快楽を得るような体験かもしれない)でより大きなものへと構築されうる、というのが大宮さんの結論。
次に、西山雄二が発表「真理、笑い、神」をおこなった。大宮さんが笑いを「世界のなかの他者」との関係として規定したのに対し、西山は笑いを「世界の他者」を創造する行為として説明した。
多種多様な笑いに関する考察はまさに人間論そのもので、人間に単一の答えがないように笑いにも単一の答えはない。ただ、ホッブズ、スタンダール、ボードレール、柳田国男などの笑い論にみられるのは、嘲笑や優越による笑いの規定である。ただこれは人間の人間や動物に対する笑いであり、人間主義的解釈の域を出ない。言葉遊びやナンセンスなどの言語表現から生じる笑いをどう考えればよいのだろうか。
動物とは異なり人間だけが笑う、そして人間だけが宗教をもつ。だとすれば、笑いと超越的な存在(神など)との関係はいかなるものだろうか。例えば、キリスト教において笑いはつねに問題含みで、大笑いや高笑いといった動物的な仕草は愚者の振る舞いとして忌避されていた。キリスト教の価値転換を図るニーチェはそれゆえ、反キリストとして笑いの預言者ツァラトゥストラを登場させる。ツァラトゥストラはパロディによってキリスト教を破壊し、さらに笑いと舞踏によって人間の創造を試みるのだ。
最後に参照されたのは深沢七郎「風流夢譚」。天皇家の断首を描くこの小説は右翼の反感を買い、発売元の中央公論社社長・嶋中宅への暴行事件に発展する(右翼少年によって家政婦が刺殺、夫人が重傷)。この小説に対して天皇家の生々しい処刑が問題とされるが、むしろ短歌のパロディこそが重要ではないだろうか。天皇が伝統的に保護してきた短歌を揶揄し、主人公はその中身の空虚さを指弾する。これは天皇の根源のパロディであり、滑稽な模倣はオリジナルな世界を二重化し、その正統性を揺るがす。世界の他者を生み出すことこそが、宗教的ファナティズムに拮抗する文学的フィクションの自由と権利である。
そして、坂巻美穂(仏文学専攻)さんがコメントを加え、モリエールの文脈に即して論点が展開された。とりわけ、貴族と平民を共に笑わせるための技法やモリエールによる自作の自己パロディの事例が興味深かった。その後の充実した質疑応答も含めて、笑いの絶えない実に豊かな年末の会だった。