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公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

本ブログでの情報はすべて個人HPに移動しました。今後はそちらでの閲覧をお願いします。⇒http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/

ホーム > アーカイブ - 2010年10月

若手アカデミー活動検討分科会の委員に選出

 内閣府所轄の日本学術会議のなかに、若手アカデミー委員会が設置されており、学術政策に対する提言を審議しています。若手アカデミーの活動のさらなる振興をおこなうために、検討分科会が今秋新たに設置されました。現在の4名に加えて、公募により9名の若手が追加され、私は人文・社会科学系の枠で委員に選出されました。若手研究者の異分野間の交流促進、若手と社会との連携、ポスドク問題など、従来のオールドアカデミーとは異なる視点で提言活動をおこなっていきます。第一回目の会合が神戸で開かれ、意欲的な若手委員が集って、さっそく充実した議論がおこなわれました。
 機会がありましたら、ご意見ご要望などお聞かせいただければ幸いです。
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[ 2010/10/27 21:39 ] 若手アカデミーの活動 | TB(0) | コメント(-)

おもひでネット対談(製作:日本記録映像振興会)

首都大学東京社会学専攻の左古輝人先生によるNPO法人「日本記録映像振興会」において、「おもひでネット対談」が公開されています。個人的な経歴から映画「哲学への権利」製作・上映、映像素材と研究教育の関係、大学の可能性など、話題は多岐に及びました。
視聴はこちら → http://kirokueizo.com/05taidan/taidan0003.html

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[ 2010/10/25 00:22 ] 映像作品 | TB(0) | コメント(-)

【アンケート】明治大学

10月23日の明治大学でのアンケートから、いくつかを紹介させてください。

「企業のなかにも哲学が息づいてくれるようになればよい。その方が、企業も多様性を受け入れて、競争力をつけられるのではないか。批判力を哲学は私たちに与えてくれるのだから。」

「一般に哲学を社会からなくすべきではないというインテリ〔討論者5名〕の意見は尊大すぎる。やはり人文学は「やりたい」という一心でなされるべき。」

「日本の教育に対する危機感がまだまだ希薄であると感じられました。残念です。すでに「待ったなし」の状況にまで、大学も、初等・中等教育の現場も追い詰められています。パネリストのなかで「現場の危機」を感じさせたのは桜井先生だけだした。」

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「新自由主義的発想が支配的な今日、「哲学」の理念をどこまで保持し、対抗力となりうるのか。多くの人々が格闘してきたこの問題の答えは、理念うんぬんよりも、「勝負に勝たなければならない」という点に集約されたように思えた。」

「そもそも我が国の現在のありようを見るならば、フランスの活動を想うこと、比べること自体がナンセンスだ。歴史の重みが違いすぎる。」

「私自身は哲学や学問は好きです。ですが、「何でそんな役に立たないものに時間とお金をかけるの?」という問いに対する答えを出せないところがもどかしい。「精神や人間性を豊かにするため」なんて、答えではない気がする。初歩的というか、素朴ですが、この答えが見つかりません。」

「ひとを「救う」のは思考することへの意志ではないか。答えのない状態に耐え、問い続けること、思考し続けることの大切さを学生に教え続けたい。」

「上映お疲れ様でした。いい意味で映画の「質」の高さに驚かされました。また、質疑応答の際に垣間見た西山先生の哲学に対する姿勢にも感動いたしました。迷いながら哲学を勉強している一学生として、励みを頂きました。ありがとうございます。」
[ 2010/10/23 23:30 ] 参加者のアンケート | TB(0) | コメント(-)

【報告】明治大学(合田正人、管啓次郎、岩野卓司、桜井直文)

2010年10月23日、明治大学駿河台校舎にて、合田正人、管啓次郎、岩野卓司、桜井直文各氏(明治大学)ともに上映会がおこなわれた(主催:明治大学教養デザイン研究科・文学研究科。約120名の参加)。事前の情宣や発表準備は実に念入りで、討論会はこれまでにないほど濃密な内容となった。専門的な議論から明治大学の現状に即した大学論・教育論に至るまで、2時間30分があっという間で時間延長が望まれるところだった。主催者や関係者、学生のみなさんには深く感謝する次第である。

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桜井直文氏は、「本作ではコレージュの現実ではなく、理念や理想が描き出されている。しかし、理念さえもなくなってしまった場合、大学の存在意義はどうなるのだろうか」と独特な深刻な声調で問題提起をした。本作が提起する大学の無条件について、哲学、無償性、公開性という鍵語が挙げられた。まず、哲学はたんなる知識の伝達ではなく、活動でもある。つまり、答えではなく、問いを探求する営みである。また、無償性は学びの目的と関係する。国家のため、大学のため、就職のために学ぶのではない。「~のために」という目的を排したところに学びの本義があるのではないか。

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最後に桜井氏は印象的な事例をあげた。脱学校化社会で知られるイヴァン・イリイチは、自らメキシコのクエルナバカに「国際文化形成センター」を設立した。時を経て、学校の理念が薄れ、運営が自己目的化したときに、イリイチは周囲の反対を押し切って、自ら学校を閉校したという。創設者とその制度の理念と現実にかんする興味深い事例だ。

岩野卓司氏は、哲学の無条件性について話を展開した。デリダは『条件なき大学』において、〈すべてを公的に言う権利〉に大学の無条件的な自由をみる。ただ、そうした無条件性は歴史上の事実ではなく、交渉されるべきものである。

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その点で、岩野氏は大学における哲学の重要性を強調。その存続のために、哲学はその固有な自己規定をおこなう。例えば、技術が進展する社会において、哲学の倫理的基礎づけといった固有性を強調するように。しかし、そうした仕方での哲学の存続は逆に、哲学の忘却ではないだろうか。なぜなら、哲学とは哲学自身の規定性を問い直す点にあるからだ。この意味で、シェリングが言うように、哲学は大学のなかに固有の場所をもたないのではないか。いまだ場所をもたないものと関わるかぎりにおいて、私たちはすでに哲学に触発されているのではないか。

合田正人氏は、20世紀思想史を自由自在に参照しながら、これまで誰も指摘しなかった本質的な論点を次々と列挙し、会場を圧倒した。

1974年の教育改革によって高校の哲学教育が削減されそうになると、デリダらはGREPH(哲学教育研究グループ)を結成して理論的・実践的に抵抗した。このいわゆるアビ改革は大学改革ではなく小中高校の改革で、中等―高等教育の連続性をめぐって運動が起きたのだった。GREPHを通じて、デリダは前世代の重要人物シャトレとジャンケレヴィッチと協同した点も貴重で、哲学教育運動をめぐる豊かなドラマがここにはある。

大学外での試みをめぐって、アランの教育論の重要性、ドレフュス事件以来の民衆大学の隆盛、ジャン・ヴァールのコレージュ・フィロゾフィックの歴史、ポンティニーからスリジーに至る討論会の存在、パトチュカによる移動大学の形態などが列挙された。

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合田氏はしかし、大学制度の外の在野的活動をひたすら肯定するのではなく、むしろ制度の思想的射程をさらに掘り下げていく。institutionは語源的に「内部に―立つこと」だが、この内存在性は、ハイデガー的な現存在の実存的構造に関わる。つまり、ある環境の内部に存在しつつも、外部に超出する点で、制度とは内/外の両義性そのものなのである。そうなると、デリダが「哲学への権利」と言うとき、ブランショの「文学と死への権利」が踏まえられているはずだ。ある限界においてこそ制度や権利が本質的に問われるのである。

デリダが権利の脱構築可能性を論じるとき、他方で正義の脱構築不可能性が考慮されている。研究教育における哲学への権利が脱構築されるとき、正義の問いは変容しないのだろうか。合田氏は最後に、本作から思考できるであろうデリダの最深部をえぐり出した。

管啓次郎氏は、哲学研究者ではないのだがと断りつつ、しかし、哲学を知っていようがいまいが、哲学とは気が付いたらすでに巻き込まれてしまっているものである、と話を切り出した。明治大学の現状を考慮しつつ、艶のある的確な表現を駆使して言葉を紡ぎ出した。

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管氏が反発するのは、学生をカスタマーとみなす現在の風潮である。本来、学びは無償的な行為であって、顧客をあらかじめ想定するような経済的活動ではない。その上でソロー『森の生活』が経済に関する記述で始まっていることの重要性が示唆される。高額な授業料を支払って大学に通う意義と、在野の知識人との対話から無償で学ぶことの有効性とはいかに異なるのか。「哲学とは生活経済学と同義である」という引用箇所が印象的だった。

大学における異なる集団同士の連結はいかにして可能だろうか。管氏は新領域創造の大学院構想に関与している経験に即して、その実践例を語った。大学院と高校という意外な連結の有効性、12人という定員数の意義などが興味深い例だった。最後に、学生が台湾の学生と共同作成した映像作品「Passing」が映写され、国際的な協同の示唆的な例が提示された。

以上は討論の一部にすぎない。討論部分はすべてiTunes-Uで2週間後から無料配信されるので、関心のある方は是非聴いていただきたい。
[ 2010/10/23 23:07 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

首都大学東京2010年度後期演習(西山雄二)サルトル / デリダ

首都大学東京では10月から後期授業が開講されます。今回の演習担当は以下の通りです。

火曜2限10.30-12.00(後期)「フランス語圏文学演習」
サルトル『文学とは何か』を読む
ジャン=ポール・サルトルが著わした20世紀の代表的文学論『文学とは何か』(1948年)を通読しつつ、今日の「文学=書くという公的表現行為一般」の可能性を探る。「文学」の概括的な理解にとどまらず、作家論、読者論、表象文化論、文体論、ジャンル論、記号論、意味論といった文学をめぐる各論、そしてサルトルの実存主義哲学とその思想的背景にも踏み込んで知識を深める。考察の指針となるのは、まさにサルトルが『文学とは何か』の各章の表題として掲げた明快な問いである―「書くとはどういうことか?」、「なぜ書くのか?」、「誰のために書くのか?」
 10/5 ガイダンス 10/12 サルトルとは誰か? 10/19- サルトル『文学とは何か』読解

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水曜5限16.20-17.50(後期)「フランス語圏文化論B」
デリダのバタイユ=ヘーゲル論通読
『エクリチュールと差異』に収録されたジョルジュ・バタイユ論「限定的エコノミーから一般的エコノミーへ 留保なきヘーゲル主義」を通読することで、デリダの脱構築思想のエッセンスを紹介する。デリダは、止揚、否定性、至高性、労働といった概念や、「主人と奴隷の弁証法」や「絶対知」といったヘーゲルの問題系を議論の俎上に載せる。デリダとヘーゲルとの関係、つまり、脱構築と弁証法の関係、差延と止揚の関係を考える上での重要テクスト。
 10/6 ガイダンス 10/13 ヘーゲルとは誰か? 発表:平山雄太
 10/20 バタイユとは誰か? 発表:八木悠允
 10/27- デリダ「限定的エコノミーから一般的エコノミーへ」の読解

これらと関連して、首都大学東京(南大沢キャンパス)では以下の催事を開催します。
 11/17日 映画「哲学への権利」上映・討論会
 12月中旬 彦江智弘(横浜国立大学)講演会「文学とは何か?」

[ 2010/10/03 11:09 ] 首都大学東京での活動 | TB(0) | コメント(-)

国際哲学コレージュ新議長マチュー・ポット=ボンヌヴィル

ryu 2010年9月30日、パリの国際哲学コレージュで議長選がおこなわれ、4名の候補の中からマチュー・ポット=ボンヌヴィルMathieu Potte-Bonneville氏が選出された。任期は2010年10月から3年間。若干42歳のポット=ボンヌヴィル氏はパリ郊外の高校教師。ミシェル・フーコー研究者。政治と文化を横断的にとり上げる雑誌「ヴァカルムVacarme」の編集メンバーでもある。4人の副議長も任命され、ボヤン・マンチェフ氏に代わりジゼル・ベルクマン氏が国際連携担当を務めることになる。
[ 2010/10/02 23:51 ] 国際哲学コレージュでの活動 | TB(0) | コメント(-)

2010年10月上映スケジュール

関連イベント(映画上映はありません)
10月8日(金)、11月12日(金)、12月10日(金)19:00-20:30
朝日カルチャーセンター新宿校
新宿住友ビル7階
講座「ジャック・デリダ入門――『哲学の余白』を読む」(全3回)
1968年のフランス哲学会での発表「差延」を読み進めます。
主催:朝日カルチャーセンター新宿校

10月23日(土)(開場12:30)上映=13.00-14.30 討論=14.40-
明治大学
駿河台校舎リバティータワー2階 1021教室(先着順300席)
シンポジウム「哲学とは何か? 大学とは何か?」
発表者:合田正人、管啓次郎、岩野卓司、桜井直文(明治大学)
主催:明治大学教養デザイン研究科・文学研究科
http://www.meiji.ac.jp/index.html
[ 2010/10/01 18:23 ] 上映スケジュール | TB(0) | コメント(-)