2010年10月23日、明治大学駿河台校舎にて、合田正人、管啓次郎、岩野卓司、桜井直文各氏(明治大学)ともに上映会がおこなわれた(主催:明治大学教養デザイン研究科・文学研究科。約120名の参加)。事前の情宣や発表準備は実に念入りで、討論会はこれまでにないほど濃密な内容となった。専門的な議論から明治大学の現状に即した大学論・教育論に至るまで、2時間30分があっという間で時間延長が望まれるところだった。主催者や関係者、学生のみなさんには深く感謝する次第である。

桜井直文氏は、「本作ではコレージュの現実ではなく、理念や理想が描き出されている。しかし、理念さえもなくなってしまった場合、大学の存在意義はどうなるのだろうか」と独特な深刻な声調で問題提起をした。本作が提起する大学の無条件について、哲学、無償性、公開性という鍵語が挙げられた。まず、哲学はたんなる知識の伝達ではなく、活動でもある。つまり、答えではなく、問いを探求する営みである。また、無償性は学びの目的と関係する。国家のため、大学のため、就職のために学ぶのではない。「~のために」という目的を排したところに学びの本義があるのではないか。

最後に桜井氏は印象的な事例をあげた。脱学校化社会で知られるイヴァン・イリイチは、自らメキシコのクエルナバカに「国際文化形成センター」を設立した。時を経て、学校の理念が薄れ、運営が自己目的化したときに、イリイチは周囲の反対を押し切って、自ら学校を閉校したという。創設者とその制度の理念と現実にかんする興味深い事例だ。
岩野卓司氏は、哲学の無条件性について話を展開した。デリダは『条件なき大学』において、〈すべてを公的に言う権利〉に大学の無条件的な自由をみる。ただ、そうした無条件性は歴史上の事実ではなく、交渉されるべきものである。

その点で、岩野氏は大学における哲学の重要性を強調。その存続のために、哲学はその固有な自己規定をおこなう。例えば、技術が進展する社会において、哲学の倫理的基礎づけといった固有性を強調するように。しかし、そうした仕方での哲学の存続は逆に、哲学の忘却ではないだろうか。なぜなら、哲学とは哲学自身の規定性を問い直す点にあるからだ。この意味で、シェリングが言うように、哲学は大学のなかに固有の場所をもたないのではないか。いまだ場所をもたないものと関わるかぎりにおいて、私たちはすでに哲学に触発されているのではないか。
合田正人氏は、20世紀思想史を自由自在に参照しながら、これまで誰も指摘しなかった本質的な論点を次々と列挙し、会場を圧倒した。
1974年の教育改革によって高校の哲学教育が削減されそうになると、デリダらはGREPH(哲学教育研究グループ)を結成して理論的・実践的に抵抗した。このいわゆるアビ改革は大学改革ではなく小中高校の改革で、中等―高等教育の連続性をめぐって運動が起きたのだった。GREPHを通じて、デリダは前世代の重要人物シャトレとジャンケレヴィッチと協同した点も貴重で、哲学教育運動をめぐる豊かなドラマがここにはある。
大学外での試みをめぐって、アランの教育論の重要性、ドレフュス事件以来の民衆大学の隆盛、ジャン・ヴァールのコレージュ・フィロゾフィックの歴史、ポンティニーからスリジーに至る討論会の存在、パトチュカによる移動大学の形態などが列挙された。

合田氏はしかし、大学制度の外の在野的活動をひたすら肯定するのではなく、むしろ制度の思想的射程をさらに掘り下げていく。institutionは語源的に「内部に―立つこと」だが、この内存在性は、ハイデガー的な現存在の実存的構造に関わる。つまり、ある環境の内部に存在しつつも、外部に超出する点で、制度とは内/外の両義性そのものなのである。そうなると、デリダが「哲学への権利」と言うとき、ブランショの「文学と死への権利」が踏まえられているはずだ。ある限界においてこそ制度や権利が本質的に問われるのである。
デリダが権利の脱構築可能性を論じるとき、他方で正義の脱構築不可能性が考慮されている。研究教育における哲学への権利が脱構築されるとき、正義の問いは変容しないのだろうか。合田氏は最後に、本作から思考できるであろうデリダの最深部をえぐり出した。
管啓次郎氏は、哲学研究者ではないのだがと断りつつ、しかし、哲学を知っていようがいまいが、哲学とは気が付いたらすでに巻き込まれてしまっているものである、と話を切り出した。明治大学の現状を考慮しつつ、艶のある的確な表現を駆使して言葉を紡ぎ出した。

管氏が反発するのは、学生をカスタマーとみなす現在の風潮である。本来、学びは無償的な行為であって、顧客をあらかじめ想定するような経済的活動ではない。その上でソロー『森の生活』が経済に関する記述で始まっていることの重要性が示唆される。高額な授業料を支払って大学に通う意義と、在野の知識人との対話から無償で学ぶことの有効性とはいかに異なるのか。「哲学とは生活経済学と同義である」という引用箇所が印象的だった。
大学における異なる集団同士の連結はいかにして可能だろうか。管氏は新領域創造の大学院構想に関与している経験に即して、その実践例を語った。大学院と高校という意外な連結の有効性、12人という定員数の意義などが興味深い例だった。最後に、学生が台湾の学生と共同作成した映像作品「Passing」が映写され、国際的な協同の示唆的な例が提示された。
以上は討論の一部にすぎない。討論部分はすべてiTunes-Uで2週間後から無料配信されるので、関心のある方は是非聴いていただきたい。