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公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

本ブログでの情報はすべて個人HPに移動しました。今後はそちらでの閲覧をお願いします。⇒http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/

ホーム > アーカイブ - 2010年06月

【報告】「ジャック・デリダ『条件なき大学』を読む」@首都大学東京

2010年6月30日ゼミ拡大版「ジャック・デリダ『条件なき大学』(月曜社)を読む」 が首都大学東京で開催された。大宮理紗子(首都大学生)さんが発表して、守屋亮一(早稲田大学生)、伊藤拓也(東京都立大学生)さんがコメントを寄せた。大学情報研究会との共催で、30名ほどが参加した。首都大学東京に着任してから最初のイベント開催であり、しかも、首都大学東京という改革の深刻な歴史をもつ大学において大学論イベントを実施するという点で重要な会となった。

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大宮さんは『条件なき大学』の的確な概説をしつつ、大学とはいかなる場なのか、いかなる場でないかと問うた。また、自分なりの視座から、情報化社会における大学の意義、大学における無条件と無制約の違いについて問題提起をした。

守屋さんは、大学には雑多性が必要だが、勉強する学生が減少するという悪い方向にあるのではないかと問うた。それは大学が就職相談所と化しており、高校と大学の接続が上手くいっていないからではないか。大学、とりわけ人文学の意義は、たとえ独りでテクストを読んでいたとしても、ある種の社会的な交わりが生起する点にあるとした。伊藤さんは、首都大学東京の改革の過去に触れて、自分の信じるところを公言しない教員の沈黙によって改革が後押しされたのではないか、と問うた。

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質疑応答の時間で、ICUのMさんは、伊藤さんが教員を断罪する立場はいかなるものか、と問うた。また、大学においては、デリダが指摘するような信仰告白に収斂することなく、具体的なプロジェクトを制度的に提起してこそ、信仰告白が出来事であるかのような瞬間が訪れるのではないかとした。東京大学のKさんは、アーレントの『人間の条件』とデリダの『条件なき大学』を的確に比較して、労働/仕事/活動という三幅対に即して、多数性が保持される言論の場はいかにして開かれるのかと問うた。和光大学のSさんは大学をいかなる場と空間として構想すればよいのかとした。首都大学のMさんは、各人がある種の寂しさを感じながら勉強するだけという現状において、その寂しさから出発する共同性をつくっていくことが重要だとした。首都大学のYさんは、なぜ大学が存在しなければならないのか、と本質的な問いを発した。首都大学のFさんは、大学が雑多な場でありにくいのは、入学する際に各人が明確なアイデンティティをもって入学するからではないかとした。

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充実した発表とコメントによって、議論の可能性が豊かに開かれた。ただ欲を言えば、たくさんの質疑を受けたにもかかわらず、登壇者はほとんど応答できなかった。発表するだけならたんなる自己主張に終わってしまう。登壇者はフロアの質問に対して応答を返す義務があるのではないか。

大学内外からのさまざまな方の参加によって、教室は独特の雰囲気に包まれた。こうした学術イベントがいかなる形で実施されうるのか――それはその大学における出会いの潜在的可能性を端的に指し示す。首都大学東京は雑多で人々の出会いを誘発するいかなる場でありうるのか。今日はそうした学問の「出来事性」の肌触りを実感することができた。参加された方々に感謝する次第である。
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[ 2010/06/30 23:18 ] 首都大学東京での活動 | TB(0) | コメント(-)

【報告】石川県西田幾多郎記念哲学館

2010年6月26日、石川県西田幾多郎記念哲学館にて映画上映とレクチャーがおこなわれた(60名ほどの参加)。

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(自然の傾斜地形を利用した建物)

西田幾多郎の生誕地に設立された記念館は、2002年に安藤忠雄氏の設計で新規移転し、田園地帯の真ん中でひときわ目立った近代的なたたずまいである。わざわざ「哲学館」という名称が付けられており、たんなる西田の記念館ではなく、哲学に触れる機会を幅広く提供することが目指されている。

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(瞑想のための円形の吹き抜け空間)

西田哲学に魅了された安藤氏の建築では、彼独自のコンクリート様式に温かみのある木材が調和している。館内は案内指示が極力排され、鑑賞者自身が道順を迷い考えながら散策する仕組みになっているという。哲学入門と西田の生涯に関する展示があり、哲学書の図書室も併設している。

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年間12回の哲学セミナーが開催されているが、その一環で映画上映がおこなわれた。哲学館はけっして交通の便の良い場所にあるとは言えないが、それでも石川県中から聴衆が一定数集まって来るようである。

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観衆からのアンケートでは、「日本人が西洋哲学に触れることについて、今後の議論に期待したい。日本の哲学者の位置を問い直してもらいたい」「日本に哲学のニーズはほとんどないのではないか。学問として、哲学の発展可能性はあるのか」「映像の切り方、つなぎ方は一考の必要あり」「『哲学とは何か』『大学と在野で哲学することの違いとは』と考え続けてきたが、それにある形が与えられたように思う」といったコメントが寄せられた。
[ 2010/06/26 20:58 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】新潟大学(逸見龍生、番場俊、城戸淳、宮崎裕助)

2010年6月25日、新潟大学にて、同大学の逸見龍生、番場俊、城戸淳、宮崎裕助(司会)とともに上映・討論会がおこなわれた(新潟哲学思想セミナー主催。45名ほどの参加)。

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番場氏はきわめてコメントが難しいと留保しつつ、独特の距離感でもって言葉を紡ぎ出した。一方で、デリダの仕事は素晴らしいと肯定しうるものの、だが他方で、フランスはやはり恵まれているのではないかという冷めた感想を抱いてしまう。日本の大学の制度運営において、積極的な役割を果たしてきた番場氏はある種の徒労感を告白しながら、大学に広がる荒廃を示唆した。また、最終場面の監督のナレーションに触れ、日本人がフランス語で語る必然性はあるのか、むしろ日本語での素朴な語りが挿入された方が、「国際」哲学コレージュの映画作品に相応しかったのではないか、と指摘した。

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(番場俊、城戸淳、逸見龍生)

カント研究者の城戸氏は『学部の争い』に言及し、18世紀に下級学部たる哲学部が上級学部(神学、法学、医学)に対して真理への権利を担っていたことを想起。コレージュはこの種の啓蒙の精神を現代的に引き継ぐのではないかとした。実際、当時の哲学部は博士号授与権をもたなかったという点でもコレージュと共通している。その上で、日本のかつての教養学部の哲学が果たしていた役割は意外と重要だったのではないかと敢えて回顧的な口調で語った。また、哲学が古代ギリシアを起源とする西欧的な限定性をもつことを確認し、コレージュは非―哲学的なものをどの程度歓待することができるのかと問うた。

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18世紀研究者の逸見氏は、フランス語のphilosopheやphilosopherが「哲学者」「哲学すること」という日本語訳には実はそぐわないと繊細な指摘をした。むしろ大学制度の外で哲学活動は実践されてきたのであり、それはドイツの伝統的なイメージをともなう「哲学」とは大きく異なるものだろう。コレージュはアソシエーション(市民団体)であり、それは市民の自発的な連帯によって生まれる活動である。人文学が新自由主義的な趨勢に巻き込まれるなかで、そうした哲学の権利の市民的な行使はいかなる効果を発揮するのか。逸見氏は最後に「抵抗」に着目し、本作で示される抵抗の言葉が哲学の別の分身を、啓蒙の別の分身を創造するのではないかと述べた。

新潟大学での討論はパネリストの方々の鋭いコメントによってたいへん充実した会となった。各人が大学における苦悩や葛藤から問いや言葉を発していたからであろう。深く感謝する次第である。

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(宮崎裕助〔左〕)

上映会には、30代で無職のSさんも参加され、懇親会にまで残ってくれて、深刻な身の上話をしてくれた。期間従業員としてマツダ工場で働いたこともある彼は、最近同工場で起きた無差別殺人が他人事と思えないという。Sさんは人文学と出会い、人文書を読むことで何とかぎりぎりの精神状態を維持している。しかし、本当に生きるか死ぬかの生存状況にいる人々にまで人文学は届くのだろうか。人文書の読書がささやかな生存の糧になっているSさんの切実な言葉には、今後も続く映画上映のなかで、何度も立ち返ることになるだろう。
[ 2010/06/25 23:57 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】カルチュラル・スタディーズ学会@嶺南大学(本橋哲也、デンニッツァ・ガブラコヴァ、リチャード・レイタン)

2010年6月21日、カルチュラル・スタディーズ学会の世界大会Crossroads(@嶺南大学)にて映画上映がおこなわれた。約25名程度が観賞したが、カルチュラル・スタディーズ(以下CSと略記)に辛辣な場面では会場から軽やかな笑いもおこった。

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映画上映と連動したパネル・セッション「カルチュラル・スタディーズおよび新自由主義的人文学教育におけるその理論状況――制度、我有化、翻訳」では、本橋哲也(東京経済大学)、デンニッツァ・ガブラコヴァ(香港城市大学)、リチャード・レイタン(Franklin & Marshall College)とともに討議がおこなわれた。

映画と関連する論点としては、「ある学問分野が制度化されるとはどういうことか」が議論された。本橋の分析によれば、日本では1980年代の批判理論の受容に引き続き、90年代にCSが本格的に定着する。CS研究は一定の支持を得て、CS専攻の教員が大学にポストを獲得するようになる。CSに関する出版物は続々と刊行されてきたが、しかし、日本ではCSを専門とする学科は存在せず、CSの学会も定期刊行物もいまだ存在しない。それゆえ、CSは大学の既存の学科(社会学、メディア研究、地域研究、比較文学など)の周縁的な位置においてその影響力を行使してきたと言える。

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(デンニッツァ・ガブラコヴァ、本橋哲也、リチャード・レイタン)

かくして、日本では、CSは緩やかなネットワーク的運動としてアカデミズムと在野のはざまで展開されてきた(その成功例は2003年から日本各地で開催されている学術的イベント「カルチュラル・タイフーン」だ)。それは、過度に専門分野化されることなく横断的実践知として効果を発揮すると同時に、大学内に固有の特権的場所をもたない脆弱さという点で曖昧な立場である。日本のCSは制度化と運動のあいだで展開される学問分野の特異な事例であり、この事例は国際哲学コレージュの在り方とも通底するものだろう。

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CSの観点から大学制度をみると、現在、香港やシンガポールではCS関連の学部学科が新設されているという。政府が高等教育への予算を増額して、留学生を引きこむことのできる魅力的な新設学部が次々に生まれているのだ。香港やシンガポールの大学では英語使用が一般的なので、世界中から留学生を呼びやすいという利点もある。いずれにせよ、人材育成や知識資本への社会的投資という点で、大学への期待は高まっていると言えよう。日本では高等教育への公的支援が貧弱だが、研究教育費を出し惜しんでいる場合ではないことを痛感させられた。

香港での2回の充実した上映・討論会を経て、東アジア初の映画上映が終了した。わずか3日の滞在だったが、現地の教授たちからは中国各地の上映の準備には協力するとの言葉をいただいた。今回の香港上映は数年後に開始される中国での巡回上映の始まりにすぎないのだろう。私の意志とは違う力学で、新たな出会いの力に導かれて、映画はさらに旅を続けていく。
[ 2010/06/20 22:32 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】香港中文大学(Chan-fai Cheung, Kwok-ying Lau, Ping-keung Lui, Dennitza Gabrakova)

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香港では街中でも蝉の大合唱が聞こえてくる。日本の8月を思わせる都会のむっとする熱気。屋台やらネオン看板やらアジア的活気に満ちていて、その雑多さがよりいっそう熱気をかき混ぜる。2010年6月19日、香港中文大学にて、同大学のChan-fai Cheung, Kwok-ying Lau, Ping-keung Lui (Hong Kong Society of Phenomenology), Dennitza Gabrakova (City University of Hong Kong)とともに上映・討論会がおこなわれた(司会:Ching-yuen Cheung. 約25名ほどの参加)。

香港中文大学は1963年に創設された公立大学である。丘陵地帯に広大なキャンパスを有し、移動にはスクールバスが不可欠だ。丘の頂上まで関連施設群が並んでいて、建物ごとにエレベータを乗り継いで、上部の施設へと移動することもできる。

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(キャンパス丘の頂上にある絶景スポット)

討論会で、哲学科長のChan-fai Cheung氏は、やや悲観的な口調で、単刀直入に「香港では哲学は死んでいる」と告白した。1980年代から哲学学会を創設して、哲学的な活動を盛り上げようとしてきたが、一定数の聴衆を獲得するには至っていない。たしかに、大学では哲学が講じられてはいるが、それはテクストに即した哲学史の習得に過ぎず、社会と密接にかかわり影響力をもつ哲学は不在であると診断した。

Dennitza Gabrakova氏は、インタヴューィーたちの多声的語りが本作を豊かに構成しているとし、現実のデリダの固有名とコレージュにおけるより曖昧なデリダの名、現実のパリと象徴的なパリのあいだで各人の語りが拡散していると述べた。また、最後のトラヴェリング・ショットで使用される「視覚上のぶれoptical blurring」は、美学的な効果にとどまらず、本ドキュメンタリー作品の認識論的枠組みを提示していないだろうか。それはつまり、コレージュの制度的実践=脱構築という枠組みである。さらにGabrakova氏は吉増剛造の『キ・セ・キ』との類似性に言及し、軌跡と奇蹟のはざまでこそ「出来事」が生じるとした。

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(Ping-keung Lui, Kwok-ying Lau, Dennitza Gabrakova)

1980年代にパリに留学していたKwok-ying Lau氏は、映画を一度観ただけとは思えないほど的確なコメントを網羅的に加えた。哲学にとって制度とは何を意味するのか。フランスでは18世紀の哲学者は大学の外で批判的思考を実践してきた。必ずしも公的制度とは結びつかない哲学者の活躍についてはサルトルの事例を見れば明らかだ。それゆえ、大学の哲学科閉鎖されることはあるだろうが、ソクラテス以来の哲学的な議論は至る所で残り続けるとした。

Ping-keung Lui氏は、香港での哲学の不振について、制度や運動を形作るのは人間であり、人材(育成)が不足してたと付言した。また、もっとも重要なことは、哲学には時間が必要なことだと言葉を締め括った。

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(Chan-fai Cheung〔左〕)

今回は東アジアでは初の映画上映と討論会だったが、香港中文大学の準備のおかげで、香港の哲学の現状を垣間見ることができた貴重な会となった。
[ 2010/06/19 23:40 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

国際哲学コレージュのプログラム・ディレクター(2010-2016年度)に選出

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昨年からの公募審査を経て、この度、国際哲学コレージュのプログラム・ディレクター(2010-2016年度)に選出される運びとなりました。コレージュでは3年に一度半数のディレクター(25名)が改選されるのですが、昨年12月に次期公募があり、内部および外部審査を経て結果が公表されました。今回の外国人枠は5名程度ですから、重要で貴重な機会を与えていただいたことになります。

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研究計画は、ここ数年取り組んでいる哲学者の批判的大学論を基軸としたもので、「哲学の(非)理性的建築物としての大学(L'université comme architechture (ir)rationelle de la philosophie)」と題されています。計画は以下の3点から構成されています。
1)大学の構造――諸学問分野からなる大学の内的構造、資本主義社会との関係における大学の外的構造という二重の構造性から大学の開放性と閉鎖性、自律と他律を考察。
2)大学の様式――プラトン以来の教育哲学という幅広い文脈を視野に入れて哲学者による教育実践や教育論から、哲学と教育(法)の内在的関係を考察。
3)大学の限界――真理の無条件的な探究をその本義とする大学は、真理への非合理的な信をも含むという問いから、大学における信と知の関係を考察。
在野の研究教育団体である国際哲学コレージュにおいて、大学の可能性と不可能性を問うことは、コレージュそのものの活性化やその存在意義の問い直しにもつながるはずです。

今後6年間の具体的な活動としては、以下の内容を構想し、すでに公募書類に記載しました。
1)セミネール「哲学の(非)理性的建築物としての大学」の開催(東京およびパリ)
ゲスト講師を交えて、パリと東京で毎年数回(最大8回まで)セミネールを開催します。
2)哲学と教育に関する合同セミネールへの参加(パリ)
国際哲学コレージュの内部組織として、今春、「教育の理論的研究国際センター」(Centre International de Recherches Théoriques en Pédagogie: CIRTEP)が創設されました。ジャック・デリダのGREPHの精神を継承しつつ、哲学と教育の共同研究を展開するこの部門に積極的に参与します。
3)国際フォーラム「哲学への権利」の開催(韓国、ドイツ、イギリス、中国、アメリカ西海岸など)
これまで開催してきた拙映画「哲学への権利」の海外での上映・討論会を、国際哲学コレージュの正規プログラムとして実施します。
4)雑誌「デカルト通り」の「日本の現代哲学」特集号の編纂
国際哲学コレージュの雑誌「デカルト通り」では、これまで、ギリシア、メキシコ、インド、チュニジア、ポルトガルといった各国の哲学特集が組まれてきました。在任中に日本の現代哲学の特集号を発刊します。

近年、私は、拙映画「哲学への権利」の上映・討論会や、「ジャック・デリダにおける教育の問い」の研究を通じて、国際哲学コレージュを外から分析してきました。映画でむしろ強調されたのは、コレージュの「理想」や「理念」でした。しかし、コレージュも人の手による制度ですから、創設から25年経った現在、問題は山積しています。今後は、プログラム・ディレクターとして、その一構成員としてコレージュの「現実」に6年間関わることになります。映画では描き切れていないコレージュの「現実」に対して、私なりの「責任」を果たさなければなりません。

国際哲学コレージュは国際性を掲げながらも、残念ながら非フランス人の活動は脆弱で、とりわけ非西欧系の研究者の実質的な参与は稀です。今回もアジア系のディレクターの選出は私だけでしょう(日本人としては、東京大学の石田英敬氏が2001-2007年度のディレクターを務めたことがあります)。今後はコレージュを日本の学術だけでなく、東アジア地域に幅広く連携させていく道筋を開いていきます。私がコレージュの「現実」に「責任」を負うというのは、コレージュが新たな関係に応答するべく道を開いていくことであるでしょう。

いずれにせよ、私ひとりだけでは、このような国際的な重責を6年間にわたって果たすことはできません。また、私だけの欲望と意志で、このわずかな外国人ディレクターの権限で実施できるさまざまな研究教育の可能性を占有するべきではありません。志を共有して頂ける研究者の方々や研究機関(大学、学部、学科、研究所)、もちろん、フランス語話者でもなく、研究者や大学関係者ではない一般の方も――すなわち、「哲学への権利」を求めるすべての人々に柔軟な連携、あるいは御支援を心より望む次第です。

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[ 2010/06/16 19:34 ] 国際哲学コレージュでの活動 | TB(0) | コメント(-)

ミドルセックス大学哲学科がキングストン大学に移転

2010年6月8日、ミドルセックス大学哲学科の閉鎖問題に一大転機が訪れた。同大学のThe Centre for Research in Modern European Philosophy(近代ヨーロッパ哲学研究センター)が、ロンドン南西部にあるキングストン大学へと移転されることになったのだ。4名の教員(6名中)が移籍し、大学院プログラムが新学期の9月から新天地で開始される。4月末の哲学科閉鎖通知からわずか6週間、この問題は新たな局面を迎えたと言える。

この「部分的だが、意義のある勝利」は、イギリス国内外での運動「ミドルセックス大学の哲学を救おう」によるところが大きい。哲学科閉鎖の衝撃はネット上で伝播し、不条理で不合理な人文学切り捨てとして人々の怒りが発せられたのだ。また、イギリスだけでなく、フランスやドイツのいくつかの大学からも哲学科救済のための学術的連携が提案されたという(各国の哲学科、哲学学会、哲学センターなどから連帯の手紙やアピールが次々に出されたが、日本からのものはない)。

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また、キングストン大学の英断は賞讃すべきものである。事が起こってから6週間、新学期を3カ月先に控えながら、哲学センターと大学院を制度的に受け入れるとは、実に寛大な行動である。しかも、キングストン大学の学部には哲学科はなく、哲学系の教員は少ない。近年、人文学分野への投資を増加させてきた大学とはいえ、どのような力学でこのような決定が短期間でなされたのだろうか。

日本に例えて想像してみよう――12月、ある大学の卓越した哲学科の閉鎖が経営上の理由で突然通告される。国内外でマスコミも含めて、閉鎖の非合理さを分析し、反対し、連帯する声が上がる。中国や韓国など、近隣国の哲学科から支援の声が寄せられる。新学期を控えた1月半ば、閉鎖の危機にあったこの哲学科が、哲学科のない、哲学教員がさほどいない他の大学によって救済される――日本ではほとんど想像できないことではないだろうか。

これで閉鎖問題に一区切りがついたわけだが、さまざまな闘いは継続される。停職・停学処分を受けている教員学生の処遇を撤回させること。職を失う恐れがある2名の教員のこと。反対運動に連帯した他学科の教員や学生が残されること。非効率的とみなされる学部学科は今後も閉鎖の危機に曝され続けること……等々。「私たち」にも起こりかねない、人文学の今日的事例として今後も動向を注視していきたい。
[ 2010/06/15 23:18 ] ミドルセックス大学問題 | TB(0) | コメント(-)

2010年6月上映スケジュール

6月19日(土)上映=15:00-16:30/討論=16:40-17:30
Chinese University of Hong Kong(香港中文大学)
LT1, Teaching Complex at Western Campus (TCW)
http://www.cuhk.edu.hk/english/
Discussants: Dennitza Gabrakova (City University of Hong Kong), Kwok-ying Lau (Chinese University of Hong Kong), Ping-keung Lui (Hong Kong Society of Phenomenology),Yuji Nishiyama
Co-organized by The Edwin Cheng Foundation Asian Centre for Phenomenology (CUHK), Archive for Phenomenology and Contemporary Philosophy (CUHK) and Hong Kong Society of Phenomenology

6月20日
2010 ACS Crossroads Conference
Lingnan University(嶺南大学), Hong Kong

13:30-14:30 Projection The Right to Philosophy: The Traces of the International College of Philosophy (short version: 60mins) Room GE G02
16:30-18:00 Panel Session “Cultural Studies and their Theoretical Currencies under the Neo-liberal Humanities Education: Institution, Appropriation and Translation”
Tetsuya Motohashi, Dennitza Gabrakova, Richard Reitan and Yuji Nishiyama
Organized by the Association for Cultural Studies (ACS) http://www.crossroads2010.org/index.html
1996年に創立されたカルチュラル・スタディーズの国際学会での上映と討論会。映画『哲学への権利』ではカルチュラル・スタディーズの制度的学際性が批判されるが、今回の討論ではカルチュラル・スタディーズの運動性と制度化の関係が討議される。

6月25日(金)上映=16:30-18:00/討論=18:10-
新潟大学
五十嵐キャンパス 総合教育研究棟B棟 2階B253教室
http://www.niigata-u.ac.jp/top/access_ikarashi.html
第5回 新潟哲学思想セミナー
ゲスト:逸見龍生、番場俊、城戸淳、宮崎裕助(新潟大学)
主催:新潟哲学思想セミナー(世話人=宮崎裕助・城戸淳)
共催:新潟大学人文学部哲学・人間学研究会
http://www.human.niigata-u.ac.jp/mt/ningen/

6月26日(土)上映=14:00-15:30/セミナー=15:40-17:00
石川県西田幾多郎記念哲学館
哲学ホール
石川県かほく市内日角井1番地(JR金沢駅から七尾線〔25分〕で宇野気駅まで 宇野気駅から徒歩20分)
地図:http://www.nishidatetsugakukan.org/contents1/gazou/map4.jpg
受講料: 500円
主催:石川県西田幾多郎記念哲学館 Tel:076-283-6600(担当:大熊玄)
http://www.nishidatetsugakukan.org/index.htm

関連イベント(映画上映はありません)
6月27日(日)10:00-12:00
セミナー「脱構築とは何か―ジャック・デリダ入門」
石川県西田幾多郎記念哲学館

受講料: 500円
主催:石川県西田幾多郎記念哲学館 Tel:076-283-6600(担当:大熊玄)

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関連イベント(映画上映はありません)
6月30日(水)16:30-18:30
ゼミ拡大版
「ジャック・デリダ『条件なき大学』(月曜社)を読む」
首都大学東京

南大沢キャンパス 5号館1階123教室
発表:大宮理紗子(首都大学生)
コメント:守屋亮一(早稲田大学生)、
伊藤拓也(東京都立大学生)
司会・応答:西山雄二(首都大准教授)
入場無料・事前予約不要
主催:西山雄二担当・専門教育科目「フランス語圏文化論A」
共催:大学情報研究会
[ 2010/06/01 22:41 ] 上映スケジュール | TB(0) | コメント(-)