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公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

本ブログでの情報はすべて個人HPに移動しました。今後はそちらでの閲覧をお願いします。⇒http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/

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A・G・デュットマン「誰が哲学を恐れているのか」―ミドルセックス大学哲学科閉鎖問題

ミドルセックス大学哲学科の閉鎖問題は国際的な広がりをみせている。スタッフと学生による平和的な会議室占拠と学術イベント開催は12日間続いたが、大学経営陣は裁判所命令をとりつけて法的な対応に出た。学生らは占拠を中断して、今度は図書館での一晩座り込みなどの新たな手段に訴えている。大学側は5月25日、占拠に加担した4人の学生の停学、3人の教員の停職を決定。この処分に抗してすぐさま、エティエンヌ・バリバールなどから抗議の手紙が届けられた。また、多くの学生・教員らも「ミドルセックスを占拠したのは私です」というプラカードをもって、ユーモラスな抗議行動に出ている。

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アレクサンダー・ガルシア・デュットマン「誰が哲学を恐れているのか」(宮裕助訳)
(2010年5月19日、Institute of Contemporary Artsでの討議における報告の抜粋)
http://www.gold.ac.uk/inc/currentevents/whosafraidofphilosophy/
音声データ:http://backdoorbroadcasting.net/2010/05/who’s-afraid-of-philosophy/

「誰も哲学など恐れてはいないのではないか」――たしかに。しかしもし誰も哲学を恐れていないのだとしても、それは、現実世界にいる多くの人々がなんの恐れもなく哲学に関われるほど自信に満ちているからということではありません。哲学に対して広く浸透した無関心があるのだということを──そう思われている以上に哲学には面白いところがあると私は感じているのだけれども──少なくともさしあたりは認めなければならないでしょう。とすると、この無関心はそれ自体ひとつの徴候であり、まさに隠蔽され抑圧された恐れの徴候であるということではないでしょうか。

しかしなんについての恐れでしょうか。それは、哲学が最終的に目指そうとするものについての恐れです。つまり、物事への不偏で没関心的な関心、議論のための議論への関心(しかしある種の議論を斥けたり議論の限界を追究したりすることから尻込みしてしまうような関心ではない)、アジェンダやイデオロギーにとらわれない概念への関心(しかしアジェンダやイデオロギーそのものを標的とすることから尻込みしてしまうような関心ではない)、心理的な拘束を超えてゆく関心、権力が遮ろうとするところで問題提起を止めない関心、といったものです。哲学の誇張法的な理想主義が試みる根底的で、多くの場合耐え難くもある挑戦──これこそは、政治家や大学の経営者が、たとえそのことを知らずそうした考えを馬鹿げたものだと肩をすくめてやり過ごすのだとしても、最終的に恐れている当のものなのです。〔…〕

〔…〕私たちは今日前例のない状況に置かれています。まさに誰も哲学を恐れているようにみえないからこそ、それだけに哲学への恐れは、つまり妥協なき、しかし無反省ではない哲学への恐れ、恐れを知らない哲学への恐れは、いっそう強力なものとなっているのであり、いまや哲学《一般》がはじめて攻撃に曝されているのです。しかしだからといって、哲学が擁護される必要があるというのではありません。アドルノが述べたように、なにものかを擁護することは、それを断念していることを意味します。そうではなく哲学は、まったく単純に、力強く、アカデミックな諸制度の内外にあって、肯定されなければならないのです。

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[ 2010/05/30 21:56 ] ミドルセックス大学問題 | TB(0) | コメント(-)

【アンケート】日本フランス語フランス文学会@早稲田大学

5月29日の日本フランス語フランス文学会@早稲田大学でのアンケートから、いくつかを紹介させてください。

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「今回はグローバル化(経済的支配)に対する抵抗という視点が強調されたが、一般的な人生の問題を普通の人々が考えるという面もあると思う。」

「早稲田大学文化構想学部の一年生で、〔…〕第二外国語としてドイツ語を学んでいる私は、この会場ではある意味で異邦人のような感覚を味わいました。ただその感覚は不快な、気まずいものではなく、開かれた、という出会いの驚きとでも言える感覚でした。」

「一言でいうと面白くありませんでした。サブタイトルに「コレージュの軌跡」とありますが、コレージュを本当にとり上げたかったのでしょうか。だとしたら、教育の場面や成果を具体的に描くべきだったと思います。あれだけの人数であれだけしゃべられてもコレージュのイメージが浮かびません。」

「今日、4回目です。今日が一番面白いと感じました。1回目は音楽しか頭に残ってなかったです。2・3回目は分かろうとして考えるのに必死でした。これからももっと領域交差してください。」

「デリダがコレージュを設立してからもうすぐ30年経とうとしている現在、抵抗としての知の実践を、制度としての大学へと結びつけることにはどれほどの正当性(あるいは妥当性)があるのだろうか。」

「藤田先生と同じような境遇なので、藤田先生にも映像にもとても励まされたところがあります。」

「将来の進むべき方向性も、ある特定の職業に就くことに疑いを抱いています。ですが、何らかのカタチでこの世の中に出たいと思い、日々色々なところに足を運び、学び、吸収しようと今は努めています。上映会そして討論会を続けていただきたいと思います。私も少しづつですが、「何か」に向かって(いえ、「何も」ないかもしれませんが)歩んでいきます。」
[ 2010/05/29 01:14 ] 参加者のアンケート | TB(0) | コメント(-)

【報告】日本フランス語フランス文学会@早稲田大学(水林章、藤田尚志)

2010年5月29日、日本フランス語フランス文学会 2010年度春季大会のワークショップ枠で早稲田大学小野記念講堂にて、水林章(上智大学)、藤田尚志(九州産業大学)とともに上映・討論会がおこなわれた。学会参加者に一般観衆が加わり、約150名が参加した。

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(藤田尚志、水林章)

水林章氏はまず、フランスにおける人文学の深刻な危機について現状報告をした。グローバル化にともなう世界の全面的な商品化のなかで、経済と市場の圧倒的な優位が生じ、「消費者」によって「市民」が圧倒されている。「市民」とは公権力から自立しようとする存在であるが、そうした共和主義的市民の原理の衰退は学校教育の衰退と軌を一にしている。

教育の形態としては、教育の無償原理が揺らぎ、高額なビジネス・スクールが人気を博し、高位の学位のために高額な授業料を設定する大学も登場している。教育の内容としては、経済的効率性や有用性が教育を左右し、人文的教養の終焉とさえ呼称しうる事態が生じている。実際、1999年以降の欧州規模の高等教育再編「ボローニャ・プロセス」が、産業界の要請に応じる形で教育の市場化・商品化を押し進めた結果、「思考の拠点を求める教育」は「市場での競争能力の獲得としての教育」に変貌してしまっている。

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水林氏によれば、西欧において人文学が消滅するとは、解放のプロジェクトとしての〈啓蒙〉の消滅を意味する。西欧における批判的理性=〈啓蒙〉とは限界を定める能力であり、「自分はどこにいて、どこに向かい、どこで立ち止まるべきなのか」を見定める力である。こうした事態に対してフランスでは危機意識と抵抗の意志が見られるが、日本では「脱知性化」(1997年の加藤周一の表現)どころではない、知性の根こそぎの抹殺が起こっていないだろうか。人文学の(再)構築を意識したフランス語やフランス文学の教育をいまこそ考えるべきだ、と水林氏は問題提起した。

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藤田尚志氏は、水林氏が共著『思想としての〈共和国〉』で引用したドゥブレの文言「共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。その場合の学校の任務はといえば、それは何事も自分の頭で考え判断することのできる市民を養成することにある」を引く。そしてさらに、社会と学校の関係にいかに国家が介入するのかを認識することが重要であるとした。また、大学の現状を踏まえた上で、教育の有用性と無用性、有償と無償をただ対立させるのではなく、条件性と無条件性を新たな関係に置き直し、交渉をおこなうことを自らの戦略として提起した。

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今回は映画『哲学への権利』の初の学会での上映だったが、登壇したお二人の真摯な言葉によって非常に濃密な空間ができた。フランス語教師としての現場の苦悩や葛藤を垣間見せながらも、人文学への信を語ろうとする二人の姿は感動的ですらあった。
[ 2010/05/29 00:08 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】代官山ヒルサイドライブラリー(長谷川祐子、杉田敦、片岡真実)

2010年5月18日、代官山ヒルサイドライブラリーにて、長谷川祐子(東京都現代美術館チーフ・キュレーター)氏、杉田敦(女子美術大学)氏、片岡真実(森美術館チーフ・キュレーター)氏とともに、CAMPの主催(担当=井上文雄)で上映・討論会がおこなわれた。アート関係者を中心に約50名が参加した。

CAMPは同時代のアートの可能性を共同で考えることを目的とする団体で、アーティストやキュレーター、ディレクター、批評家、研究者、学生などとの協同によって、トークイベントや展覧会を主に都内各所で開催している。そうした遊動的で自由な共同空間を模索するCAMPでの上映は、本作品の趣旨とも深く共鳴するものであった。

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(普段は図書室として利用されている空間を上映会場として設営)

杉田敦氏は、アルチュセールやグリッサンの思想が関係性の美学を豊かな仕方でもたらしたように、「哲学」や「アート」は自閉した二項ではなく、哲学の話がそのままアートの話になり、アートにおいて生じていることが哲学となるような両者の親密な相互性があるとした。

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(長谷川祐子氏、杉田敦氏、片岡真実氏)

片岡真実氏は、「哲学」を「アート」に置き換えて本作を鑑賞することで、「制度のなかに留まりながらも実践しうる戦い」とは何かを考えたと語った。美術館の観衆は一枚岩ではなく、さまざまな層に分かれている。まず、美術館への寄付をおこなう富裕層があり、アメリカの事例のように、その経済的権力が館長の任命権や収蔵品の傾向にまで力を及ぼす場合もある。また、展覧会に足を運ぶローカルな観衆がいる一方で、ネット環境を通じた潜在的で国際的な観衆もいる。片岡氏は、美術館は各層に応じたアクセス権を充実させる必要があると語り、制度と権利の関係を浮き彫りにした。

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長谷川祐子氏は、「哲学やアートという伝達困難なものをいかに伝達するのか」という問いから話を切り出した。哲学やアートを結びつける観点として「運動」と「制度」が挙げられるだろう。「運動」によってさまざまな創造が生起し撹乱した後で、それらを検討し共有するために「制度」が必要となる。だとすれば、多くの人々を歓待するための場やメディアとして制度はいかに構想されるべきか。長谷川氏は、創発的な出来事を引き起こす自己組成的な場に関心があると語る。以前勤務していた金沢21世紀美術館では、ワンカップ大関を片手にもったおっちゃんまでも入館するような場づくりを目指し、カオス的な場にいかなる示唆を与えられるのかが重要視されたという。

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長谷川氏は、宗教や科学では解明されえない問題が21世紀にもち越されていて、哲学やアートは「最後の問い」に応答するべく存続すると主張。その意味で、人文的なものは劣勢ではなく、起死回生のチャンスにあると明言し、会場の聴衆を魅了した。

今回は、映画「哲学への権利」の討論会で初めて芸術関係者との議論がおこなわれた。初回にもかかわらず、現場の第一線で活躍されている方々と刺激的なお話をさせていただき、大変有益な機会を得た。登壇者と主催されたCAMPの方々には心からの謝意を表明する次第である。
[ 2010/05/18 04:00 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

ミドルセックス大学に出現した横断的空間

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ミドルセックス大学哲学科の廃止に抗議して、学生たちによる会議室の占拠が継続している。平和的な手段による占拠であり、授業の妨げにはならない範囲での慎重な行動である。5月7日からは学術イベントが開催され、ラカンやスピノザのセミナーが実施され始めた。占拠された空間は大学関係者の有無を問わず、誰にでも開放されており、エティエンヌ・バリバール(下段写真中央)が来訪して支持を訴えるなど、自由な「横断的空間Transversal Space」が出現している。http://savemdxphil.com/
占拠に関する記録映像:http://www.vimeo.com/11523774

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今回の騒動は同大学に限定される問題ではなく、イギリスの高等教育制度そのものに対する不満が背景にある。金融危機をアリバイとして、大学経営陣は彼らの尺度で制度再編をおこない、不要とされる学部・学科を次々に切り捨てている。イギリスの大学関係者一般の批判は、こうして、占領者たちの公開書簡によって端的に代弁されている。「大学はビジネスではなく、教育は商品ではない。大学や教育は人間の権利であり、公共サーヴィスである。教育は経済危機を引き起こしているわけではなく、それゆえ、当の危機のために犠牲にされてははならない。」

ミドルセックス大学では会合が開かれたが、経営陣は哲学科廃止の見直しを拒否。解決策が見えないまま、事態が進行している。時間と資金があれば、映画「哲学への権利」を持参して駆けつけ、上映・討論会を実施したいところである。
[ 2010/05/07 21:46 ] ミドルセックス大学問題 | TB(0) | コメント(-)

ミドルセックス大学哲学科の閉鎖に抗する公開書簡

ryuミドルセックス大学の哲学科の閉鎖への懸念を話し合うべく、5月4日午前に学生たちは学部長ら大学側との会談を設けていた。だが、キャンパスに到着した学生たちは、「前日の夜に会談はキャンセルされた」との通知を知った。警備員は学生らが廊下に立ち入ろうとするのを阻止して警察を呼んだが、幸い警察は手出しをしなかった。学生たちは学部長室のすぐ近くにある会議室を占拠。約束していた学部長との話し合いがおこなわれるべく抗議している。

今回の閉鎖に抗議して、哲学研究者たちが同大学関係者(副学長や学科長)宛てに書簡を送っている。数十の書簡は公開されて、「ミドルセックス大学の哲学を救おう(Save Middlesex Philosophy)」 http://savemdxphil.wordpress.com/ のサイトに掲載されている。その一部の抄訳を紹介しておきたい。

イギリスとアメリカの哲学プログラムの大半が分析哲学に焦点を絞っているのに対して、ミドルセックス大学では優れた教師と学生たちがヨーロッパ思想に関連する問題に取り組んでいます。事実、この点で、アメリカ、イギリス、オーストラリアの哲学科において、ミドルセックス大学の水準を超える学科があるとは思えません。かくも独特で重要な哲学プログラムを喪失することは、教師と学生にとって恥でしょう。この喪失はイギリスのみならず、アメリカや他の地域の人々にとっても甚大です。――マイケル・ハート(デューク大学)

私は今回の決定が覆されることを強く願います。大学のために、イギリスの知的生活のために、とりわけ、哲学という伝統的で不可欠な世界的な学問分野の未来のために。――ノーム・チョムスキー

今回の決定を再検討していただいと主張せざるをえません。現代ヨーロッパ哲学研究センターの閉鎖は、ミドルセックス大学のみならず、イギリスの大学制度の評判、さらには、その文化的生活にまで甚大な損害を与えると思うからです。――アレクサンダー・ガルシア・デュットマン(ロンドン大学ゴールドスミス校)

この私の抗議文のような手紙をあなた方は確実にたくさん受けとることでしょう。御自身が危機に曝している当の哲学科の評判を実感して、あなた方はどことなく満足されているのではないでしょうか。破滅的な決定の再検討をうながすべく数多くの声があがっていますが、そのなかに私の声が加わることを嬉しく思います。――ジェフリー・ベニントン(エモリー大学)

南米や東アジアの大学院生のあいだでも、ミドルセックス大学の哲学センターのことはよく知られています。北米や西欧の大半の哲学プログラムとは異なり、この哲学センターは欧米の外でどんな知的な活動が起こっているのかに対してきわめて敏感です。また、グローバルで学際的なプロジェクト(MultitudesやRadical Philosophy、Traces)にも参与してきました。――酒井直樹(コーネル大学)

ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチでは、多くの大学院生がイギリスでの哲学といえばミドルセックス大学のことを思い浮かべ、その哲学科の教員の著作を読んでいます。〔…〕成功しているプログラムを閉鎖するよりも、想像力をもって投資をおこなう道を見つけ出すべきです。哲学科はあなた方の大学の冠の宝石なのですよ。――サイモン・クリッチリー(ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ哲学科長)

ミドルセックス大学で哲学を学び教える多くの書き手たちの友人として、また出版人として、哲学科が脅威に曝されていることを本日知って驚愕しています。私は今回の決定が覆されることを強く望みます。〔…〕ヴェルソ出版は、この決定と戦っているミドルセックス大学哲学科の教員、スタッフ、学生を支持いたします。――ジャコブ・スティーヴンス(ヴェルソ出版)〔Verso Booksはヨーロッパ思想関係の書籍を多く刊行しているニューヨークの出版社〕

ほかにも、エティエンヌ・バリバール、ポール・パットン、フランソワ・キュッセ、ヨーロッパ哲学学会などの書簡が掲載されている。
[ 2010/05/04 22:56 ] ミドルセックス大学問題 | TB(0) | コメント(-)

ミドルセックス大学哲学科の閉鎖に反対する署名

ミドルセックス大学の哲学科の閉鎖に反対する署名は、開始から一週間で8.400筆ほどが集まっている。著名な哲学者も署名を寄せているが、投稿されているコメントを紹介したい。

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(5月4日午前、ミドルセックス大学の哲学科の閉鎖に抗議して集まった学生と教員スタッフたち。翌5日からは学生らによる学内での抗議署名への呼びかけが本格的に開始される。)

ミドルセックス大学の哲学科にはユニークな歴史がある。そんな哲学科が閉鎖されなければならないなんて、考えられない話だ! 普通、他大学の運営には口を挟むことはできない。しかし私は、ミドルセックス大学哲学科の閉鎖が愚かな決定であると、いかなる点でも証言する心構えができている。――ガヤトリ・C・スピヴァク

イギリスのみならず、いたるところで、人文学にとっての闇の時代である。同じく、人間存在にとっても、やはり闇の時代だということだろうか。おそらく、存在するものすべてにとって。この事態を私たちは了解できているだろうか。もちろん、人文学は再生され、再発明されなければならないが、しかし、破壊を通じてなされてはならない。――ジャン=リュック・ナンシー

今回の「技術的な」決定は、実のところ、反動的かつ自滅的な政治的手法である。ミドルセックス大学の哲学科に直接関係する者だけでなく、哲学はもとより、哲学以外の学問分野にも関係するあらゆる教師や学者によって反対されるべきである。――エティエンヌ・バリバール

今回の危機的な閉鎖は大学側の利害関心をはるかに越えた結果をもたらすだろう。つまり、探究の精神、市民精神や倫理的判断における批判的な洞察力、対話の実践力、またこれと関連して、自由、自律、思慮深い行動、慎み深さに対する根本的な動機づけといったものの貧困化をもたらすだろう。――アヴィタル・ロネル

ほかにも、ジュディス・バトラー、スラヴォイ・ジジェク、エレーヌ・シクスー、カトリーヌ・マラブー、アレクサンダー・ガルシア・デュットマン、ジェフリー・ベニントン、サイモン・クリッチリー、ドゥルシラ・コーネル、ベルンハルト・ヴァルデンフェルス、ヴェルナー・ハーマッハー、フェティ・ベンスラマ、ボヤン・マンチェフらがすでに署名している。「哲学への権利」の目下の最前線のために連帯を願う。

署名HP: ミドルセックス大学の哲学を救おう(Save Middlesex Philosophy)
http://www.gopetition.com/petitions/save-middlesex-philosophy.html
(ページ下方の「Sign the petition」をクリックで手続き開始。誰でも簡単に署名できます。もちろん、研究者や大学院生でなくとも結構です。)

また、宮裕助氏(新潟大学)が、この問題に関する以下の的確な文章について、要点抜粋による紹介をされていたので、許可を得て転載させていただきます。宮崎氏は当面、Twitter上でこの問題に関する積極的な情報発信を続けていくそうなので、関心のある向きはご参照ください。http://twitter.com/parages

『ニューステイツマン』4月29日(記=サイモン・リード=ヘンリー)
http://www.newstatesman.com/blogs/cultural-capital/2010/04/philosophy-university

人文学への襲撃──ミドルセックス大学の哲学科が脅かされている

今週ミドルセックス大学の教養教育学部長は、本学の哲学課程のすべてを閉鎖する予定であると通告した。教員に送ったEメールによると、その理由は「単純に財政的である」というものだった。この決定──ひとりのアカデミック・ブロガーは「金銭ずくの愚行」と評している──は、現在拡大中のネット上の反対運動を引き起こし、同様のことが、ロンドン大学キングズ・カレッジとリヴァプール大学でもすでに巻き起こっている。[……]

英国の大学、そしてとりわけ世界的にも著名なこの国の人文・教養学部は、活気ある政治や社会にとって、またその討議の質にとって根本的なものである。だがいまやそれがますます危機に脅かされつつあるのだ。

ミドルセックス大の哲学科はその渦中の一例である。ここは、イギリスにあって大陸哲学の主導的な学科のひとつであり、ヨーロッパ思想の古典──カントであれヘーゲルであれ、サルトルであれバディウであれ──について私たちの理解を深めてきた点で国際的な名声を得てきた。のみならず、そうしたことと並んで、今日の政治的・倫理的ジレンマに照らしてそうした古典を再解釈する関心も兼ね備えてきた。

そのうえここは、ミドルセックス大ではいわゆる「研究評価実践」で最高位を得た学科でもある。つまり、イギリスの学術的業績を計測し監視するのに今日ますます用いられつつある馬鹿げた基準をもってしてさえ、この哲学科は「当を得た適切性」を有しているということである。上位20校のラッセル・グループとわたり合ってきた前ポリテクニックの大学として、こうした学科はいったいこれ以上他になにをすればよいと期待されているのかと首をかしげるほかない。

もちろん、大学の学科はまずもって収入を産み出す「金のなる木」であるべきだと考える人もいる。私自身はそんなふうに考える理由がわからない。しかしたとえ大学がそんなものだとしても、ミドルセックスの哲学科は、その点で怠ってきたと言われる筋合いはないだろう。近年この学科は、教育と研究で得た収入の半分以上を大学に納めてきたとのことだ。おそらくそんなわけで大学のウェブサイトは、この学科の「生き生きとした活発な文化」、「画期的で重要な研究を産んでいる教員」を擁し「その研究の多くが学部課程の特徴となっている」点を吹聴している。

これは、うわべだけのごまかしにすぎないのだろうか。ミドルセックス大学がみずからのウェブサイトで述べていることを本当に守るのであれば、そうした学科を閉鎖するという資格などない。関係者は、今回の決定の再考を強く求められている。[……]
[ 2010/05/04 04:24 ] ミドルセックス大学問題 | TB(0) | コメント(-)

2010年5月上映スケジュール

5月18日(火)(開場17:30)上映=18:00-19:30/討論=19:45-21:00
代官山・ヒルサイドライブラリー
(渋谷区猿楽町18-8 ヒルサイドテラスF棟1F)
http://www.hillsideterrace.com/index2.html
討論:「哲学とアート」
ゲスト:片岡真実(森美術館チーフ・キュレーター)、杉田敦(美術批評/オルタナティブ・スペース、art & river bankディレクター/女子美術大学教授)、長谷川祐子(東京都現代美術館チーフ・キュレーター)
定員:40人(予約制)参加費:1,000円 協力:クラブヒルサイド
主催:CAMP(担当:井上文雄)http://ca-mp.blogspot.com/

関連イベント(映画上映はありません)
5月22日(土)14:00-17:00
東京外国語大学
大学会館二階大集会室
「10年代の教養 ― 大学が迷走する時代に」
萱野稔人(津田塾大学)×西山雄二(首都大学東京)
事前予約制:観覧希望の方は genshiken.tufs@gmail.com へ、タイトルに「5.22対談観覧希望」、本文に「名前、予約席数」を記載の上、送信
主催:東京外国語大学サークル「現代思想研究会」
http://genshikentufs.seesaa.net/
現在、国内外を問わず「大学」は大きく変わりつつある。日本では、3年生の秋頃から本格的に始まる「就活」に引き摺られる形での大学があり、国立大学法人化以降、非常勤講師が大幅に削減され、授業数が減少し特に「人文知」は危機的状況だ。「大学」を考えた際に何が問題なのか、学問の細分化が進んだ今、大学に入って何を学ぶべきか、2010年代という時代に新たな形での教養を創造する必要性があるのではないか。(主催者・細川洋平)

5月29日(土)15:45-18:15
日本フランス語フランス文学会 2010年度春季大会
早稲田大学
早稲田キャンパス 27号館地下2階 小野記念講堂(先着順200席)
地図: http://www.waseda.jp/jp/campus/waseda.html
ワークショップ「人文学の現在と未来 ― 映画『哲学への権利』をめぐって」
ゲスト:水林章(上智大学)、藤田尚志(九州産業大学)
主催:日本フランス語フランス文学会 http://wwwsoc.nii.ac.jp/sjllf/index.html
[ 2010/05/01 00:44 ] 上映スケジュール | TB(0) | コメント(-)