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公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

本ブログでの情報はすべて個人HPに移動しました。今後はそちらでの閲覧をお願いします。⇒http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/

ホーム > アーカイブ - 2010年03月

【映像作品】「旅思(4)――映画『哲学への権利』巡回上映の旅の記録」

映画「哲学への権利」の東京大学(駒場)での上映・討論の模様を映像作品にまとめました。映画出演者2名を交えた総括的討論会で、上映運動のひとつのクライマックスです。



「旅思(4)――映画『哲学への権利』巡回上映の旅の記録」(10分30秒)
音楽:matryoshka “Monotonous Purgatory” in 2nd Album (2010)
写真撮影:黒木佐緒里、守屋亮一、岩崎正太
撮影協力:奥田伸雄
監督:西山雄二
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[ 2010/03/31 08:57 ] 映像作品 | TB(0) | コメント(-)

【アンケート】東京大学駒場

3月27日の東京大学での上映では数多くのアンケート回答をいただきました。心より感謝申し上げます。「勇気づけられた」という表現が散見されたことは、こちらとしては嬉しい限りです。そのうちのいくつかを紹介させてください。

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「こうした映画の上映会にこれだけの人が集まるほど、哲学や大学が関心を集めるなら、日本もまだ捨てたものではないのだろうか。」

「音楽や映像を通して『問い』が提示される迫力は、様々な背景をもった人々によって形成されているこの『場』と合わさって、想像を絶するものがあった。」

「静かな、しかし刺激的な不思議な余韻が残った。映画で語られた、ある意味、断片的な国際哲学コレージュの理念や姿が、上映後の出演者の話によって奥行きを与えられ、立体的なものとなった。哲学や思考が現在の世界を形作っているだけでなく、私たちがこれから向かおうとする未来への礎や指針に欠かせないものだと再認識した。」

「『哲学への権利』を分からせる、というより、うまく気づかせてくれる、そんな映画だった。」

「今日はじめて『哲学への権利』という言葉の意味がわかりました。6回目にしてやっとです(笑)。この表現を上手いこと考えたなあ、と本当に思いました。どう分かったかは言語化できませんが、身体に染み込んできた気がしました。」

「哲学という学問をもっと大きな枠組みのなかで理解する視点をもつことができた。」

「日本人がなぜフランスでインタヴューをするのか、日本の哲学状況での位置づけ方はまだ軽薄であるようにみえた。」

「大学に入って、はじめて哲学というものに接して戸惑ったときのことを思い出した。」

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「自らへの批判的な問いも含めて、UTCPという場についても、外部の方が取材し、映像化されれば、と願う。」

「UTCPは税金を上手く使っていると思う。」

「私は会社員ですが、哲学とビジネスが切り離されたものではなく、どのように関係しているのか、その関係を築いていくべきか、考えるとともに、それを実生活に反映していきたいと思います。さまざまな立場の人が気軽に哲学に携われる、触れられる場が増えることを願っています。」

「社会学を専攻しているのですが、ディシプリンそのものを探すことに不安な気持ちをずっと抱いていました。しかし、今日の映画を通じて、より開いたものへと向かう哲学を知ることでその気持ちが解消され、自分のやっていることを前向きにとらえ直すことができた。」

「この映画はコレージュの制度について説明する辞書的ドキュメント。したがって、ダイナミズムがまったくなく、単調だった。」

「現在の大学のつまらなさについて言い出したらきりがないが、大学の中から、外から考えることを貫徹するために動いている人たちがいることは、本当に心強く感じた。」

「人々の暮らしに哲学が日常的に息づくことの大切さを改めて学ばせていただきました。とくに日本が現在、大きな分岐点にさしかかっているなかで『思考する』私たちこそ重要なことだと思いました。」

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「哲学の可能性を開くチャンスは、私たちのさまざまな現場にもあるのはないか、そのような発想から何かを考えられるのではないか、と勇気づけられた。」

「働きながら、これからも死ぬまで学び続けていきたいとの思いを強くしました。」

「この映画も討論会も哲学の保身に染まり過ぎていたように感じた。」

「各人の話の先に目には見えない、理想的な国際哲学コレージュが感じられた。それは、人間にはけっしてつかみ得ない真理を追究する哲学の姿と重なり、同時に哲学そのものが肯定されたように感じられ、勇気をもらった。」

「やはりデリダという固有名の大きさにはあらためて感嘆せざるをえない。」

「駒場図書館で働いています。いま、図書館では仕事を業務委託の形で、業者の入札に任せようという話が出ています。哲学の抵抗の仕方に興味をもってきたのだと、映画を観ているうちに気がつきました。今ある制度を積極的に活用しようとしている小林先生の言葉と、コレージュで抵抗されている先生方、映画を製作された西山先生の姿勢がとても印象に残りました。図書館の小さな仕事ですが、私なりにできることをやっていこうと思いました。」

「素晴らしい映像と討論会だった。哲学の責任、その距離を測る思索を受け止める、享受する、歓待する権利は私たちにすでに訪れているのだ。」
[ 2010/03/27 02:37 ] 参加者のアンケート | TB(0) | コメント(-)

【報告】東京大学駒場(ボヤン・マンチェフ、ジゼル・ベルクマン、小林康夫)

2010年3月27日、東京大学駒場18号館ホールにて、映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」の上映がおこなわれ、討論会がボヤン・マンチェフ(新ブルガリア大学、国際哲学コレージュ副議長)、ジゼル・ベルクマン(国際哲学コレージュ・プログラム・ディレクター)、小林康夫(UTCP)、西山雄二(UTCP)によって実施された。桜が咲き始めたものの花冷えする気候のなか、210名ほどが集まる盛会となった。

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まず、西山雄二から、拙映画「哲学への権利」を、東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」にて上映することの喜びが告白された。「大学、人文学、哲学の現在形と未来形をいかなる制度として実現すればよいのか」――これはUTCPが取り組み続けている重要な問いである。「人文学の研究教育の領域横断的な可能性を国際的な次元でいかに発展させていくべきか」、その先駆的な事例が国際哲学コレージュであり、UTCPはコレージュをモデルとして創設されたのである。

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次に、ボヤン・マンチェフは、国際哲学コレージュの4つの使命を提言した。1)規範化される現在の哲学の傾向に抗して、活気ある新たな哲学的実践を創出する場であること。2)現在の状況(とりわけ政治的状況)に対して批判的な場であること。3)優れて国際的な場であること。それはたんに外国人教師を増やすだけでなく、別の言語、別の哲学の舞台へと開かれるのか、つまり、私たちの世界の真の他性化を思考することである。4)哲学教育について議論され、新しいタイプの哲学教育の探究と実験がおこなわれる場であること。

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ジゼル・ベルクマンによれば、「哲学への権利」はパフォーマティヴな題である。今回は日本人研究者が「はるかなる視線」(レヴィ=ストロース)をコレージュに投げかけることで、哲学に対する「別の」関係が示されている。彼女は、場所や空間、現場の問いに着目する。というのも、コレージュはパリのデカルト通りに事務局が設置されているものの、キャンパスをもたず、いたるところで研究教育活動が展開されるからである。コレージュの理念とその歴史性という二重性を、コレージュのユートピア性に即していかに考えるべきか。批判的な抵抗の場であり続けるべきか、時流に適合した場となるべきか。いずれにせよ、哲学に即した思考の実験こそがコレージュの責務であり続けるだろう。

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小林康夫は、まず、UTCP創設時にジャック・デリダを招聘しようとしていたことを告白し、コレージュとの歴史的な関係を強調した。そして、「(西洋)哲学は無実ではない」と自説を展開した。現在の資本主義社会や民主主義政治などと深い共犯関係にあり、もっと言えば、哲学こそが現下のあらゆる事象や体制を生み出したのである。それゆえ、世界そのものに対して哲学には責任がある。思考が哲学を越えて、哲学の罪を突き抜けるためにはどうすればよいのか――歴代の哲学者たちはこの限りなく不可能な問いに取り組んできたはずだ。たしかに、哲学は孤独な作業たりうるが、しかし、こうした哲学の責任を目指す国際的な連帯のための場も必要である。たんなる国際的な交流ではなく、別の思考との出会いを通じて(西洋)哲学の営みを突破すること――UTCPもコレージュもこうした使命を負っているのである。

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[ 2010/03/27 01:05 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【速報】東京大学駒場での上映

2010年3月27日、東京大学駒場での上映会が、ボヤン・マンチェフ氏、ジゼル・ベルクマン氏、小林康夫氏ともに無事に終了しました。東大UTCPでの最後の仕事でしたが、210名程の参加でもって、実に感動的な幕切でした。ただ、通訳レシーバーが不足してご不自由をかけてしまい、申し訳なかったです。2009年9月のアメリカ上映、日本での巡回上映、2010年2月のフランス上映など、現在までに26回の上映がおこなわれ、のべ約1700人が会場に足を運んだことになります。来場していただいたみなさんに感謝申し上げます。UTCP上映会のクライマックスを皮切りに、映画はまた新たな旅に出ることになります。

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[ 2010/03/27 00:11 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【映像作品】「旅思(2)――映画『哲学への権利』巡回上映の旅の記録」

映画「哲学への権利」のこれまでの巡回上映の旅の記録(2010年2月 フランス編)を映像作品にまとめました。これまでのゲストの貴重な言葉が並ぶ感慨深い映像です。音楽は映画本編と同じく、matryoshka (http://www.matryoshka.jp)さんの卓越した楽曲「Monotonous Purgatory」を使用させていただいています。



「旅思(2)――映画『哲学への権利』巡回上映の旅の記録」(10分42秒)
出演:Michel Deguy, François Noudelmann, Boyan Manchev, Gisèle Berkman, Pierre Carrique, Bruno Clément, Anne Berger, Eddy Dufourmont, 西山雄二
音楽:matryoshka “Monotonous Purgatory” in 2nd Album (2010)
撮影協力:中真大、守屋亮一、犬塚佳樹
運営協力:河野年宏、柿並良佑、水田百合子
監督:西山雄二
[ 2010/03/22 23:42 ] 映像作品 | TB(0) | コメント(-)

【映像作品】「旅思(1)――映画『哲学への権利』巡回上映の旅の記録」

映画「哲学への権利」のこれまでの巡回上映の旅の記録(2009年2月-2010年2月)を映像作品にまとめました。これまでのゲストの貴重な言葉が並ぶ感慨深い映像です。音楽は映画本編と同じく、matryoshka (http://www.matryoshka.jp)さんの卓越した楽曲「Monotonous Purgatory」を使用させていただいています。



「旅思(1)――映画『哲学への権利』巡回上映の旅の記録」(9分41秒)
音楽:matryoshka “Monotonous Purgatory” in 2nd Album (2010)
撮影協力:中真大、奥田伸雄、守屋亮一
監督:西山雄二
[ 2010/03/22 23:40 ] 映像作品 | TB(0) | コメント(-)

未来形の追慕の方へ

3月は、嬉しいことに、映画出演者3名(ミシェル・ドゥギー、ボヤン・マンチェフ、ジゼル・ベルクマン)の懐かしい顔ぶれと共に討論会を実施することになっている。小林康夫氏、丸川誠司氏を交えて3名と夕食を共にした今夜は実にスリリングだった。主に小林氏とドゥギー氏のあいだで「現在、詩はいかにして可能か」をめぐって議論が戦わされたからだ。「詩は言語を必要とするが、にもかかわらず、言語から解き放たれることは可能だろうか」「詩はエコロジーの問いのなかにその将来を見い出すのではないか」「交渉されるべき環境世界ではなく、さらに深遠な、世界への開かれこそが詩の課題だ」などなど。

ちなみに、この晩餐はたまたま、私の地元・愛媛県の郷土料理屋(@新橋)でおこなわれた。ドゥギー氏がたまたまこの店を気に入っているのだという。懐かしい仲間とともにしばし思郷の念にかられた夜である

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いよいよ、27日(土)には東京大学UTCPにて、映画「哲学への権利」が上映され、出演者ボヤン・マンチェフ氏、ジゼル・ベルクマン氏と共に総括的な討論がおこなわれる。上映運動のひとつのクライマックスをなすイベントになるだろう。
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2010/03/post_77/

ところで、未来形で追慕の念を語ることは可能だろうか。27日のイベントを最後の仕事として、私はUTCPを去ることになる。やがて私はこの特異な研究教育の場に敬慕の念を募らせていくことになるだろう。27日の上映・討論会ができるだけ充実した会となるように心と力を尽くしたい。
[ 2010/03/22 23:00 ] 映画の上映準備 | TB(0) | コメント(-)

【報告】渋谷・UPLINK FACTORY(芹沢一也)

2010年3月20日、朝一番の飛行機にて東京に戻り、渋谷へ。27日の上映会のために来日した本作の出演者ボヤン・マンチェフ氏をホテルで出迎えて昼食をとる。その後、渋谷・UPLINK FACTORYにて、芹沢一也(シノドス主宰)氏とともに上映・討論会がおこなわれた(40名ほどの参加)。本作の完成記念上映会は昨年9月、UPLINK FACTORYでおこなわれた。日本各地での巡回上映を一通り終えて、かつての故郷に帰還した気持ちになった。

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芹沢氏は、本作で表現される「哲学に対する確信」への違和感から話を始めた。というのも、コレージュの面々が披露する哲学の存在根拠に共鳴するかしないかによって、本作の見方が大きく左右されるからだ。芹沢氏が強調したのは、「哲学の名において何を保守しようとしているのか」、という本質的な問いであった。

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また、芹沢氏自身が主宰するシノドスの事例が参照され、学ぶための場づくりの実践にも話が及んだ。大学のようなある種権威的な空間設定ではなく、話し手と聞き手の水平的な環境を用意することで異なった知的な好奇心や興奮が喚起されることがあるという。また、経済のセミナーに経営のプロが参加して質問を投げかけ、話し手の経済学専攻の大学教授が緊張感を強いられる場面もあるという。芹沢氏は大学の外で知の交流空間を創造し続けており、その経験に即した有益なコメントを聞くことができた。

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[ 2010/03/20 14:25 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】九州日仏学院(ミシェル・ドゥギー、藤田尚志)

2010年3月19日、福岡の九州日仏学院にて、本作の出演者ミシェル・ドゥギー(詩人)、藤田尚志(九州産業大学)とともに上映・討論会がおこなわれた(60名ほどの参加)。

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ドゥギー氏は国際哲学コレージュに関する概括的な話をした。コレージュはフランスのアカデミズムにおいてどこに位置づけられるのか。最終学年で哲学が必修の高校、哲学科を有する大学、文化系のグランゼコールなど、コレージュはつねにそれらの研究教育制度とは「別の場所で」構想され実践されてきた。

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大学制度のなかで関係省庁に依存する制度ではなく、その周縁で準制度(quasi-institution)としてコレージュは機能してきた。このことはコレージュの力であると同時に、その脆弱さをなす。デリダは「国際哲学コレージュには友しかいない」と皮肉を述べていたが、それは暗に「コレージュは敵だらけ」を意味するのである。

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会場からは「なぜ哲学の義務ではなく、哲学への権利なのか」という質問が出た。ドゥギー氏は、「では、いったい何歳から哲学への権利が発生するのか」と切り返す。人権は年齢制限をともなわないが、哲学を学ぶ権利は青年以上にしか許されないのか、それとももっと若い学生にも、あらゆる社会階層にも許されるのか。いずれにせよ、哲学の義務を語る前に哲学へとアクセスする権利が重要となるだろう。
[ 2010/03/19 00:38 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】京都大学(森田伸子、大河内泰樹、山名淳、小野文生)

2010年3月13日、京都大学にて、森田伸子(日本女子大学)、大河内泰樹(京都産業大学)、山名淳(京都大学)とともに上映・討論会がおこなわれた。司会を務めた小野文生氏(京都大学)の発意と企画によるもので、グローバルCOE「心が活きる教育のための国際的拠点」の主催で開催された。合格発表直後の土曜日、新生活ガイダンスで多くの新入生でキャンパスはごった返していたが、新入生数名から一般市民まで、さまざまな人々が130名程度集まった。

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(企画者の小野文生氏〔左〕)

小野氏が案出した今回の討論題目「教育哲学と哲学教育のあいだ」は絶妙な題である。そもそも、「教育」が「(能力や才能を)外に引き出すこと」を語源とし、「哲学」がギリシア語で「知への愛」を含意することから分かるように、両者はともに、学校や大学での狭義の専門的な学術活動には限定されず、むしろ人間が生きていくことの本質的な活動に近い。さらに教育と哲学の関係について言えば、「教育哲学(教育を哲学すること)」は教育の原理的考察を指し、「哲学教育(哲学を教育すること)」には哲学の伝達や継承といった実践的な含意がある。交叉した哲学と教育、教育哲学と哲学教育のあいだを架橋するものは何か。国際哲学コレージュを描いた本作に引きつけて回答するならば、この両者の関係に具体的な形や仕組みを付与するものは「運動」や「制度」であるだろう。

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(森田伸子氏、大河内泰樹氏、山名淳氏)

森田氏は、本作で強調されるインタヴィーイーの手の映像に着目。哲学とは「これだ」と手で掴んだり、手で提示したりできない提示困難な営みである。手に乗せて提示しがたい哲学を必死で語ろうとする様子が手の映像によって描かれているとした。

また、森田氏は、「日本社会において子供には哲学が必要であり、そうした哲学への権利は彼らの死活問題である」と明言した。登校拒否の事例が挙げられ、学校そのものに対して疑問をもった子供が、社会、人間、さらには世界そのものへの疑問を抱くようになる告白録が引用された。既存の意味の体系から逸脱してしまったとき、子供は生きるために哲学を必要とするのではないか。森田氏は、ユネスコの哲学教育への取り組みや分析哲学グループによる子供のための哲学実践の事例にも触れた。

大河内氏は、デリダのように哲学の社会的制度を実際に創設するかどうかは別として、まず、そうした制度が実現可能であることに気がつかされる点で本作は有効であると話を始めた。また、皮肉な指摘として、本作が過度のクリシェ(定型)で構成されているとした。デリダの言葉の定型、パリの風景の定型などは、見方によってはパロディに映りかねない表現である。また、本作で監督・西山がフランス語でナレーションを入れている点は、コレージュの国際性とどう関係するのか、と繊細な問題提起がなされた。

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山名氏は綿密なレジュメ「『教育哲学』から『哲学教育』を眺めてみる」を準備されて、豊かな議論を展開した。哲学が哲学自身を実験的に問いに付すことができるのに対して、教育学と不可分の教育哲学にはその限界がある。それは、教育哲学が、教育学というディシプリンの一部分として、学校制度や教員養成制度と不即不離の関係にあるからである。つまり、教育哲学は規定の「現場」をもち、「現場」をもつ以上、そのディシプリンの有用性を目に見える形で「測定」されるのである。制度から遊離するのではなく、どこまでも制度に即して制度のなかで哲学の実験を展開するという共通点において、国際哲学コレージュの制度的実験は教育哲学にとって重要な事例であるだろう。

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小野氏は、本作では哲学への愛が語られるが、それはおそらく誰かへの愛であると指摘。それはインタヴィーイーの師への愛であり、教える者と学んだ者の記憶や時間が本作では表現されているとし、教育研究者の視点から鋭い洞察を加えた。

今回、本作をめぐって、教育哲学、教育学関係の研究者との対話がはじめて実施され、有益な議論をうかがうことができた。本作をめぐる議論の厚みが倍増した、たいへん充実した日だった。

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[ 2010/03/13 23:55 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)