公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

本ブログでの情報はすべて個人HPに移動しました。今後はそちらでの閲覧をお願いします。⇒http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/

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【報告】ボルドー第3大学(Eddy Dufourmont)

2010年2月22日、ボルドー第3大学にて、Eddy Dufourmont(同前)とともに上映・討論会がおこなわれた(10名ほどの参加)。

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(ボルドー市はローマ時代からの歴史を誇る中継貿易都市。おもに18世紀に建造された住居や門、広場などが残されている。歴史的な景観が保存されている市街地は散策するのに丁度いい広さ。)

エディー・デュフモン氏からは、国際哲学コレージュの国際性に疑問が提示された。50名中、外国人枠は10名という制限がある。大学では外国人制限はないのだから、コレージュの制限は奇妙に映る。コレージュが哲学の普遍性を探求しようとするならば、その国際性の根本的な問い直しが必要だろうとした。

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また、会場からは「国際哲学コレージュが学位を出さない以上、学生のメリットは何か」、「コレージュの試みは哲学の個人的な営みではなく、制度的な共同性の問いに関わる。映画では創設者のひとりであるデリダがコレージュから個人的には身を引くことでその共同性を守護するという身振りが紹介された。こうした哲学実践の形態や構造を踏まえると、今回の映画作品と監督との関係はいかなるものだろうか」といった質問が飛んだ。

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今後も上映・討論会の旅は続いていく。だがしかし、これはいったい誰の旅なのだろうか? もはやこれは「私の」旅ではない。見知らぬ人々との出会いをも含めた「私たちの」旅になりつつある。さらに言えば、これは何の旅だろうか。敢えて言うならば、哲学への権利と欲望こそがこの旅を前進させている、そんな感慨を抱かざるを得ない。そして、旅の速度と律動は多大なノイズを孕みつつも、次第に豊かなものになっている。

今回のフランス上映に合わせて旅行に来ている学部学生の中真大さん(京都大学)、守屋亮一さん(早稲田大学)、犬塚佳樹さん(東京外国語大学)には上映の準備・運営などでお世話になりました。旅の最後に彼ら若者たちの驚くべき行動力に対して、感嘆と感謝の念を表わしておきたい。
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[ 2010/02/22 14:40 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】パリ第8大学(Bruno Clément, Anne Berger)

2010年2月19日、パリ第8大学にて、Bruno Clément(パリ第8大学), Anne Berger(同前)とともに上映・討論会がおこなわれた。冬休み前だったためか、15名ほどの参加にとどまったが、両氏との真摯な討論によってきわめて実り多い会となった。

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アンヌ・ベルジェ氏の的確な要約によれば、国際哲学コレージュでは、「ひとつ以上(Plus d’un)」が追求される。思考が生み出されるのは、ひとつ以上の言語、ひとつ以上の国籍、ひとつ以上の学問分野を通じてだからである。

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ブリュノ・クレマン氏は、デリダが取り組んだ「哲学教育研究グループ」(GREPH:Groupe de Recherches sur l’Enseignement Philosophique)の的確な理解が重要だとした。1970年代、デリダは哲学教育の削減政策に対抗して、GREPHを結成して批判的運動を展開した。ただ、実用的な教育政策方針を打ち出す保守派の力と、デリダに反発する多数の哲学者の力によって、GREPHは行き詰まってしまう。その後、左派政権誕生という転機が訪れ、彼は国際哲学コレージュの創設にこぎつける。「国際哲学コレージュはGREPHの失敗から生まれた」、とデリダは言う。つまり、GREPHという「運動」では成しえなかったことを、「制度的実践」によって達成するにはどうすればよいのか、という問いがコレージュには込められているのである。

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(映画のラストシーンより)

 
映画は最後に、電車の車窓から撮影されたエッフェル塔の二重写しのイメージで終わる。クレマン氏は、この二重のイメージが本作とコレージュとの関係を的確に映し出しているとした。つまり、インタヴュイーが語るコレージュと「本当の」コレージュのあいだで、その理念と現実のあいだで国際哲学コレージュは揺れ動くのである。

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討論を通じて、現在の大学と国際哲学コレージュに共通する同音異義語が指摘された。現在、大学の「自律性(autonomie)」が促進され、資金や運営面で大学の自己責任が問われている。デリダもまた、自律性を考慮に入れているが、それは実現しえない来るべき自己の掟(autos-nomos)としてであるだろう。また、コレージュでは学位(titre)ではなく、応募者の計画(projet)によって、プログラム・ディレクターが選出される。それは、哲学へのアクセス権を保証するための「計画」である。これに対して、現在、研究分野で流行している「計画」は、競争的資金を獲得し、成果を上げるという循環を指す。今日の大学制度を問うにあたって、国際哲学コレージュが試みる諸概念の脱構築が有益であることが確認された。

パリ第8大学上映の準備や運営に関しては、河野年宏さん、柿並良佑さん、水田百合子さんにたいへんお世話になった。心からの感謝を記しておきたい。

[ 2010/02/19 23:10 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】国際哲学コレージュ(Michel Deguy, François Noudelmann, Boyan Manchev, Gisèle Berkman, Pierre Carrique)

2010年2月18日、国際哲学コレージュと東京大学UTCPの共催イベントとして、パリ2区のCentre Parisien d'Études Critiquesにて上映会がおこなわれた。予定されていた議長Evelyne GrossmanとPierre Zaouiは急遽欠席となったが、映画に登場するMichel Deguy, François Noudelmann, Boyan Manchev, Gisèle Berkmanらが討論に参加した。50名ほどが詰めかける盛会となった。冒頭で西山から映画上映の経緯、映画の趣旨などが簡単に説明された後、参加者全員での討議に入った。

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国際哲学コレージュの別の名
急遽登壇したピエール・カリック(Pierre Carrique)氏は、「コレージュの名を担うのは誰か?」と問い、示唆的な導入をおこなった。

Pierre Carrique
(ピエール・カリック氏〔右〕)

デリダの言葉によれば、「国際哲学コレージュ」という名はつねに「別の名」を呼び求める。国際哲学コレージュとは、各人が各々の仕方で発することのできる秘められた「別の名」に差し宛てられており、今回の映画はまさにこの「別の名」である。コレージュは国家の補助金を得ている以上、国家権力による我有化の恐れに曝されている。しかし、プログラム・ディレクターが6年ごとに更新されるコレージュは特定の人物によって我有化できない仕組みを有しているとも言える。

哲学のアマチュア性 制度の脆弱性
ボヤン・マンチェフ(国際哲学コレージュ副議長)は、研究者・西山がプロの映画監督ではなく、アマチュア(愛好家)として映画を製作した点がコレージュの精神と共鳴すると指摘。哲学(フィロソフィア)が語源的に「知への愛」である以上、哲学の専門化とは異なる哲学のアマチュア性(愛好性)とは何か? コレージュでは教師の在任期間が6年に限定されているのは、こうしたアマチュアから専門家への移行を考慮してのことではないか。

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(ボヤン・マンチェフ氏〔中央〕)

ミシェル・ドゥギー(パリ第8大学名誉教授)によれば、フランス語で「アマチュア」は「さほど技能をもたない」というニュアンスとともに軽蔑的に響く。ただ、近年、哲学者ベルナール・スティグレールがたんなるamateurisme(愛好主義)とは異なるamatora(愛好者)の復権を積極的に説いているように、繊細な仕方で「アマチュア」の立場を語ることは重要であるとした。

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(ミシェル・ドゥギー氏〔左〕)

また、国際哲学コレージュは、6年毎にすべての教師が更新される点で脆弱な制度である。それは、力が同時に脆弱さでもあるという独特の原理であるだろう。ただ、創設以来、数十年の年月が経った現在、「過度に脆弱にならない力とは何か」に配慮することがコレージュの今日的課題である。

ジゼル・ベルクマン(現プログラム・ディレクター)は、過小評価されるamateurisme(愛好主義)でもdilettantisme(好事的態度)でもない方向を指し示すために、ギリシア語philia(愛情)を再び活性化させることを提案。貴族主義的で郷愁的な共同体ではなく、討議的なphiliaの共同性であり続けることはつねにコレージュの課題であるとした。

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(ジゼル・ベルクマン氏)

また、たしかに、コレージュにおいて脆弱さと力は表裏一体であるが、しかし、この脆弱さは映画のなかでクレマンが指摘するように、特定の時代(ミッテラン左派政権時代)の産物である。人間性に必要不可欠な脆弱さが配慮された時代と言ってもいい。ところが、新自由主義的な風潮が高まる近年、高校教師がコレージュで教鞭をとるための兼務許可制度が廃止され、高等研究省の施設利用は「治安上の理由」で拒否され、コレージュは困難に直面している。そうした状況において、こうした「危機的だが批判的な場lieu de critique」をいかに確保するのかは今後の課題である。

フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学)は、ロラン・バルトを参照しつつ、「専門家とアマチュアは異質なもので、アマチュアはたんに技量の低い専門家というわけではない」と言葉を継いだ。集団的なアマチュア主義を想像することは難しい。アマチュアとはむしろ個人的な営みである。コレージュがアマチュア的だとするならば、各人の愛好の律動をいかに維持するのかがこの制度の掛け金となるだろう。

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(フランソワ・ヌーデルマン氏〔左〕)

国際哲学コレージュ(から)の実践
ドゥギー:明らかに、大学改革は似たような仕方で、フランスでも日本でも、ともかく世界中で進展している。日本の大学改革を目の当たりにして、国際哲学コレージュの事例を引きながら、あなたは何をしようとしているのか。組合でも創設しようというつもりなのか。

西山:映画上映の際に、「あなたは国際哲学コレージュのようなものを日本で立ち上げるのか?」と質問されることがある。新たに制度を創設することだけが実践的な解決とは言えない。数々の上映と討論を通じて、つねに移動しながら、さまざまな人が集う議論の場をその都度、つくっていきたい。

マンチェフ:批判的な場を開くという意味では、今回の映画にコレージュの敵対者を登場させてもよかっただろう。また、過度のナルシシズムに陥らないために、「国際哲学コレージュの批判的な在り方が今の時代の国際性に適合しているのかどうか。現在の資本主義や新自由主義化する大学の論理と同じ程度の質しかもっていないのではないか。コレージュは本当に、市民社会に目を向けた制度であり続けているのか」と自問する必要があるだろう。フランスでは若者の哲学離れが進んでいるが、コレージュは若者を惹き付ける魅力をもつことができているだろうか。コレージュは今もなお、真に革新的な形を模索しえているだろうか。

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フランスにおける哲学の現状――大学/在野
ヌーデルマン:その通り。1983年の創設時、コレージュは既存の大学に対抗していたが、大学の現状は激変している。哲学志望の学生はこの20年で1/3弱に激減しており、大学の哲学科はもはや哲学の強固な権威的中心ではない。市民大学、監獄や病院での哲学的セミナー、哲学カフェ、哲学雑誌などの方がむしろ幅を利かせている。コレージュは大学の権威に対抗するのではなく、そうした哲学の市民的活動のなかで自らの立場を見出さなければならない。

ベルクマン:現在の時流のなかで、コレージュが失われた社会的存在感を回復するべきかどうか、これは容易には答えられない巨大な問いだ。逆に、コレージュは批判的な抵抗の場として維持されるべきなのか。私見では、前衛的で最先端の研究セミナーが実施されていれば、たとえ聴衆が3-5名であったとしても存在意義はある。ちなみに、来年度から哲学と教育、伝達に関する国際共同研究がコレージュ内で促進される。

マンチェフ:いや、時流に迎合すればいいと言いたいわけではない。もし批判的な思考があるとすれば、それは批判者が自己変容する限りおいてである。規定の場を固守するだけでは抵抗は生まれない。

ベルクマン:もちろん。参加者人数に関して言えば、3-5名、20名、数百名といたさまざまな幅のある場があることが重要で、そうした多様性が研究教育の豊かを生み出す。

会場からの介入:さきほど西山氏が言ったことには賛成で、運動形態としてのコレージュというのは効果的ではないか。

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「抵抗」とは何か?
ヌーデルマン:「抵抗」という言葉を発するだけでは単純すぎるのではないだろうか。何かを攻撃するというよりも、国際哲学コレージュは、伝統的な大学制度では受け入れられない研究教育のための避難所(アジール)として機能してきたのだから。現在、推進されている高等教育機関の「自律性(autonomisation)」に抵抗するというだけでは単純すぎるのではないか。もちろん、自律性とは巧みな罠で、公的サーヴィスを効果的に縮減するための修辞にすぎない。こうした潮流に抵抗しなければならないのは事実だとしても、抵抗という仕方だけに甘んじていてよいのだろうか。

ベルクマン:もちろん、私は「抵抗」と言ってもたんに否定的な意味ではなく、積極的で生産的な意味で用いている。

マンチェフ:創設以来、コレージュは大学の周縁で活動していたが、現在、大学そのものが効率化の論理に押されて危機的状況にある。コレージュにできることは、教育のあるべき形を探求し、哲学と教育の関係を問い直すことだろう。

ヌーデルマン: コレージュでの討議的な共同性は集団的な活力を獲得するかもしれないが、しかし、戦争状態に陥る恐れもある……。

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今回の討論会では映画出演者が集ってくれて、忌憚のない議論を交わすことができた。ただ、会場に国際哲学コレージュの現プログラム・ディレクターは足を運んでおらず、話題になったコレージュの集団的な活力の不在が深刻であることをうかがわせた。パネリストが矢継ぎ早に発言する形で議論は進展し、批判的な意見も含めて、コレージュの存在意義を問う貴重な機会になった。質疑応答の時間は設けられなかったが、ときおり会場から自発的な介入があって、檀上とフロアでの討議が知らない間に展開される点が刺激的だった。

今回の国際哲学コレージュでの上映と討論会において、本映画はコレージュの「現実」と交錯したことになるのだろう。本映画ではむしろコレージュの「理念」、とりわけデリダの研究教育の「理念」が意図的に描き出されている。理念と現実が交差したパリでの上映・討論会を経て、本作品は今後、おそらく、さらに異なった生命と律動で躍動し始めるだろう。

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[ 2010/02/18 23:10 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

カトリーヌ・マラブーの論集『真ん中の部屋』について

ここ数カ月、哲学者カトリーヌ・マラブーの新刊ラッシュが続いている。2009年秋には、『真ん中の部屋――ヘーゲルから脳科学へ』(La chambre du milieu: De Hegel aux neurosciences, Hermann)、『差異を取り替える――女性的なものと哲学的問い』(Changer de différence: Le féminin et la question philosophique, Galilée)が刊行された。前者はこれまでの論文15本からなるマラブー初の論集で、後者はフェミニズム、ジェンダー研究、クイアー・セオリーとは異なる仕方で、女性的なものの哲学的考察を試みる一書である。

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(J・バトラーとの共著『私の身体であれ』、『差異を取り替える』)

また、ジュディス・バトラーとの共著で『私の身体であれ――ヘーゲルにおける支配と隷従の現代的読解』(Sois mon corps: Une lecture contemporaine de la domination et de la servitude chez Hegel, Bayard Centurion)は2010年1月に刊行されたばかりだ。ヘーゲルの『精神現象学』の「主人と奴隷の弁証法」の抜粋を巻末に付して、英仏の独創的なヘーゲル研究者二人は対話的な仕方で論考を執筆した(各自2本で計4本の対話的論集)。

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(『真ん中の部屋』)

論集『真ん中の部屋』には独特の思い入れがある。2003年春、パリに留学中、指導教官だったマラブーさんから、「これまで発表した論文をまとめて論集を出版するように出版社から頼まれているので、あなたの意見を聞きたい」、と相談を受けた。そこで私は彼女の論文を読み、目次を組んでみて、その書名を『真ん中の部屋』と名付けた。『失われた時を求めて』のように、各部を「ヘーゲルの方へ」「デリダの方へ」などと名付け、その中間にマラブーの思想が浮かび上がるという趣向だ。この書名と構成を彼女はとても気に入ってくれて、その後会う度に、「『真ん中の部屋』をまだ刊行できなくてすまない」と繰り返した。そしてとうとう、昨年に日の目を見ることになったわけだ。この論集刊行は生涯忘れられない思い出となるだろう。

「真ん中の部屋――この書名を私は西山雄二氏に負っている。彼はかつて2000年代にパリで私の学生だった。ある日、彼は、私の脱構築との関係が、ヘーゲルへの関心と脳科学の研究のあいだで『一種の真ん中の部屋』を形作っている、と告げた。私はこの表現を決して忘れることがなく、今回の著作に彼の言葉通りの書名を付すことができて嬉しく思っている。本書では、15の各論考を通じて、実際に小部屋にいるように、読者に立ち止まって休息するようにうながす、そんな生と思考の歩みの諸段階が記されている。たしかに、本書は独特の仕方で、ホテルのように、文字通り、歓待の場所として構想され構築されているのである。」(『真ん中の部屋』序文)
[ 2010/02/18 07:59 ] 公刊物 | TB(0) | コメント(-)

ジゼル・ベルクマンとの打ち合わせ

ジゼル・ベルクマン氏とモンマルトルのカフェで明日の映画上映会の打ち合わせをしました。国際哲学コレージュの実情についても話を聞き、参考になりました。

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今回のフランス上映に合わせて、パリに旅行に来た学生の中真大さん(京都大学)と守屋亮一さん(早稲田大学)も同席しました。中さんからは「自分が出演している映画が日本や他の国で上映されていることについて、どんな気持ちでしょうか?」との質問。「自分のイメージではなく、言葉が見知らぬ誰かと響き合っていることが大切」との返答。守屋さんからは「初めてのパリで、ホームレスや物乞いなどあからさまな貧困を目の当たりにして驚いています。哲学者は貧困にいかに対置できるのか?」との質問。「貧困を直接的に行動したり分析したりではないにしろ、具体的な現実に届くような哲学の実践が必要」との返答。

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(守屋亮一さんと中真大さん)

来3月にベルクマンさんは来日し、UTCPにて26日はワークショップ「フランス現代思想の地平」、27日は映画の討論に参加されます。→ http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/
[ 2010/02/18 06:17 ] 映画の上映準備 | TB(0) | コメント(-)

映画上映のポスター掲示

パリに留学中の友人・河野年広さんたちの心強い協力を得て、今回の映画上映のポスターが市内の要所にとても目立つ形で掲示されていました。また、フライヤーも大量に撒いていただいているようで、情報宣伝の点で大いに助けられています。留学の貴重な時間を割いて尽力していただいたみなさんには、心からの感謝の気持ちで一杯です。

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(国際哲学コレージュの掲示板)
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(L'Harmattan書店の入口)
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(L'Harmattanヴィデオ店)
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(ソルボンヌ大学広場にある哲学専門の老舗Vrin書店)

これまで何度か、日本にいながら、海外で国際シンポジウムを企画・準備・実行したことがあります。メールという迅速な通信手段のおかげで、準備まではうまくいきます。問題は効果的に情報宣伝をおこない、聴衆を集めることです。情報宣伝はやはり現地にいないと上手くいかず、また、往々にして海外の方は宣伝が下手ですから、聴衆はほとんど集まりません。今回は映画上映なので人が集まりやすく、また、国際哲学コレージュの公式イベントでもあるので、是非とも盛会にしたいと努力しています。

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[ 2010/02/17 02:24 ] 映画の上映準備 | TB(0) | コメント(-)

映画上映の旅のつぶやき

ツイッターを開設することにしました。面倒そうなので何となく避けていましたが、フランスに旅立つ日の朝に突然の思いつきです。映画上映の旅のつぶやきを無理のない範囲で各地で残していきます。
http://twitter.com/yuji_nishiyama

paris gare sm
[ 2010/02/15 13:58 ] 映画の概要・内容 | TB(0) | コメント(-)

【報告】神戸大学(松葉祥一、中畑寛之)

朝、大阪の宿を出て神戸へ。車窓からは山と海に挟まれた街並みが見えてくる。2010年2月8日、神戸大学にて松葉祥一(神戸市看護大学)氏、中畑寛之(神戸大学)氏とともに上映会がおこなわれた(70名ほどが参加)。

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松葉氏は、68年5月の革命的出来事とパリ第8大学の実験的精神が国際哲学コレージュの歴史的背景をなしていることを自身の体験談を交えながら指摘した。パリ第8大学は学位互換なしに外国人の入学を認めたり、バカロレア(大学入学資格)のない者にも門戸を開いていた。これに対して、なぜ日本の68年はこうした開放的な形で継承されなかったのか。

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(松葉祥一氏、中畑寛之氏)

また松葉氏は、美的なもの(イメージ)と政治的なもの(メッセージ)の関係について、前者を後者に従属させる危険性を指摘した。本作が映画なのか、メッセージ集なのか。たんにテクストを読めばよいものを映像化しただけなのか。そうではないとすれば、本作は映画として何であるのか、と本質的な問いを提起した。

中畑氏は、教える側の立場のみならず、学ぶ側の立場もまた映像に残すべきだったのではないかと問うた。

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上野成則(神戸大学)氏は、「コレージュに関する外在的な問題しか描かれていないのはなぜか。学ぶ側や対抗者の言葉もまた挿入した方がよい」と指摘した。続いて、市田良彦(同前)氏は、むしろコレージュの「問題」は本作に十分に描かれていると言葉を継ぎ、各インタヴューイーがモノトーン的に並べられることへの強い違和感を表明した。自身がコレージュで教鞭をとった経験を踏まえて、近年のコレージュが閉鎖的な傾向にあると述べた。

2月4日の筑波に始まり、大阪―京都―大阪―神戸と6日間移動しながら、6回のイベントが終了した。各地の主催者の尽力のおかげで、連日、予想以上の盛会となった。大学教師と学生のみならず、さまざまな方が参加され、懇親会にも残ってくれて楽しい時間を過ごすことができた。また、巡回中には何回も足を運んでくれるリピーターも少なくはなく、毎日一緒に移動しているかのようだった。関西では歯に衣着せぬ批判的な意見を聞くことができて、こちらとしても大変な成果があった。本作の課題と限界が明瞭になり、討論の幅も広がったのである。今後も上映・討論会が続いていくが、あらためて身を引き締めてひとつひとつ実施していきたい。

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[ 2010/02/09 01:35 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

雑誌「atプラス」03(東浩紀さんとの対談)

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太田出版から刊行されている雑誌「atプラス」03(特集=生きるためのアート)にて、東浩紀さんとの対談「アナクロニックな時間のつくり方――人文知の継承のために」が掲載されています。映画『哲学への権利』と東さんの小説『クォンタム・ファミリーズ』を取り上げつつ、大学と在野、哲学の無償性、責任の問い、教養の回復、人文知の連続性、哲学と制度などをめぐる話になりました。批評家・東さんが大学や、大学内の哲学をどのように考えているのか、お話をうかがうことができて大変興味深かったです。



[ 2010/02/08 00:03 ] 公刊物 | TB(0) | コメント(-)

【報告】大阪大学(望月太郎、斉藤渉)

地面にわずかに雪が残る京都から、阪急電車で大阪方面に移動。宝塚線石橋の駅で降りて、小高い丘の上にある大阪大学豊中キャンパスへと向かう。2010年2月7日、望月太郎(大阪大学)、斉藤渉(同前)とともに上映会がおこなわれた(60名ほどが参加)。

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(斉藤渉、望月太郎)

望月氏はデカルト研究者から出発して、幅広い主題で哲学教育の現状について考察を巡らせてきた方である。今回は、ユネスコにおける哲学教育の取り組みに即して哲学への権利、つまり、哲学へのアクセス権について話を展開した。世界的に見て、哲学は大学のみならず、社会のなかで多層的に実践されている。初等・中等教育段階における哲学教育、企業での哲学カウンセリング、在野の哲学実践の学校など、哲学が大学制度から解放される確かな兆候がある。また、ユネスコは第二次世界大戦後、あらゆるプロパガンダ、不寛容、排除、暴力などに対抗し平和に貢献する、開かれた批判的思考、態度、生き方として哲学を推奨してきた。

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そのうえで、望月氏は、国際哲学コレージュは「北(西欧を中心とする先進諸国)」の哲学的実践にとどまるのであり、「南」への眼差しに対する応答がなされているのだろうか、と問うた。「南」への眼差しに開かれたときに、はじめて哲学は解放されるのだ。

望月氏によれば、哲学への権利が可能となるためには、現実のデモクラシーが必要である。そして、哲学もデモクラシーも効率の悪い時間がかかる営みである。その意味で、哲学の活性化に必要なものは潤沢な資金ではなく、社会における余暇的な時間、すなわち、立ち止まって思考する時間なのである。

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斎藤氏は哲学の活動実践は必要だが、他方で哲学史を学ぶことも必要であるとした。なぜなら、哲学史を通じて、かつて自明ではなかったことが自明になっていることを歴史的に確認できるからだ。人間の思考が歴史を通じて変容することの考察もまた、実は哲学の今日的な実践と深く連関するのである。
[ 2010/02/07 23:46 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

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