金美晶さんによるインタヴュー「誰かの共感を得ること、そこから生まれるただ一度の出来事――2010年の大学、人文学、そして……」が韓国の文芸誌『文芸中央』に掲載されました。金美晶さんは留学していた昨年度、東京大学での拙自主ゼミに足を運んでくれて、映画「哲学への権利」も二度観ていただきました。韓国でもまた、大学制度内でも在野でも、人文学を問い直す時期に来ているようです。日本と韓国の人文学の状況に即して私の仕事を振り返っていただき、たいへん刺激的な対話をもてたことを感謝しています。韓国上映がとても楽しみになってきました。
金美晶さんの印象的な言葉を引いておきます。
「映画『哲学への権利』に対する自分の所感ですが、レトリックが強すぎるかもしれませんが、これは人文学の一種の「没落」や「終焉」以後を模索する方法論のひとつだと思いました。没落や終焉への予感は、韓国でもありふれています。私が大学に入学する1990年代半ば頃から、いつも「危機」が叫ばれてきたのです。文学も哲学も批評も「危機だ、危機だ」といった、「危機一辺倒」の雰囲気でした。
ところが、2000年代になると、「危機」という表現は「終焉」や「終末」という言葉にとって代わった感があります。極端な例で言えば、2004年に柄谷行人がある文章で、韓国文学を指して「(近代)文学の終焉」を宣言し、それによって韓国文壇において「終焉」をめぐって大きな波紋がありました。
私のこうした経験もあって、西山さんの試みは、近代的な価値の危機を、さらにはその終焉以後を思考しなければならなかった韓国の状況と重なったのです。西山さんは「哲学」や「大学」に力点を置いて、映画で表現されました。私の場合は、どうしても文学に身を置いてしまいます。」
「映画では、国際哲学コレージュのアソシエーションという運営方式がたいへん興味深いです。おそらく、西山さんも高い関心を寄せているのでしょう。
アソシエーションとは「自発的な人々の集い」です。西山さんも御存じの通り、韓国にも大学制度の外にいくつかの私的研究所があります。政府からの援助とは無縁で、自発的な運営が可能だという点が、コレージュとはまったく異なる韓国的特質かもしれません。これは「私と君」「私とわれわれ」という関係、すなわちコミュニティ感覚の違いから生まれるものでしょうか。私の考えですが、大学制度外の研究空間は「研究」コミュニティであり、そして、80年代の学生運動を受け継ぐ「運動」コミュニティでもあるのです。
私は大学院時代に、大学制度の外の研究空間に関心をもって行ったり来たりしたことがあります。「引きこもりのような自分だけの空間」ではなく、「一緒に集まって、何かをおこなう、つくり出す、変化に期待する」点が良かったのです。その運営方式は、成員の経済力に合わせて会費を集めたり、、社会的・経済的に余裕のある方から後援金をもらったりという方式でした。これは、市場や国家を他の仕方で横領する好例ではないでしょうか。」