上映報告(国内) 公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

本ブログでの情報はすべて個人HPに移動しました。今後はそちらでの閲覧をお願いします。⇒http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/

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【報告】千葉県立東葛飾高校×柏まちなかカレッジ

2011年7月2日、柏まちなかカレッジの主催で、千葉県立東葛飾高等学校にて、『哲学への権利』の上映・討論会がおこなわれた。柏まちなかカレッジは、学びの場づくりによって、柏市の町と人を活気づけようと2010年に発足した地域密着型の市民活動である。東葛飾高校では大学との連携講座や教師陣による講演をおこなう「東葛リベラルアーツ講座」が実施されており、その一環としての企画でもあった。高校生10数名と一般市民ら約20名が参加した。会場はなんと地学室で、実験器具とともに懐かしい雰囲気での上映となった。

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(大正時代の旧校舎の一部、玄関のポーチ(パルテノン)部分が敷地内に残されている。)

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西山からフランスの大学受験や哲学教育について説明がなされた後、自由討論ではいくつもの問いが元気よく飛び出し、充実した対話となった。「哲学は対話形式でしか学べないのか、それとも、読書による独学でも学ぶことはできるのか?」「受験競争が過熱している日本社会において、高校生が物事を考えるための居場所はあるのか?」「日本人が外国人と対話する秘訣は?」「高校で倫理学を教えているが、授業では楽しく自由討論できるのに、試験問題はどうしても重要事項の穴埋め式となり、そのギャップに悩まされる。」「若手による雑誌『哲楽』を制作しているが、哲学を一般に広めることの功罪を感じている。哲学をセールスしているようで戸惑うことがある。」「哲学を学ぶことは、今を生きることの重要性とどう関係するのか?」

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柏からたくさんの元気をいただき、ありがとうございました。
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[ 2011/07/02 00:08 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】九州産業大学(アルノー・フランソワ、後藤正英、藤田尚志)

2011年6月18日、九州産業大学にて、『哲学への権利』の上映・討論会がおこなわれ、アルノー・フランソワ(トゥールーズ大学)、後藤正英(佐賀大学)が登壇した(司会:藤田尚志〔九州産業大学〕)。国際シンポジウム「制度と運動――哲学への権利をめぐる問い」の一環で、午後はフランス語・ドイツ語で各人の発表がおこなわれた(約30名の参加)。

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(後藤、西山、フランソワ、藤田氏)

アルノー・フランソワ氏によれば、本作が2009年に撮られたことは象徴的で、その時期フランスでは大学改革(大学の新自由主義的な自律化、若者の初期雇用契約の柔軟化、教員の身分規定の改革など)とこれに対する教員・学生の抵抗運動が過熱していた。高校の哲学教師の自由な研究が困難になったり、見込まれる成果や利益をもとにして研究資金が競争的に配分されるなど、フランスでも哲学の立場が危ういことを生々しく報告した。

フランソワ氏は、そうした困難な現状でも、「哲学は役に立たないから役に立つ」という逆説的な正当化に訴えるのは得策ではないとする。哲学も必ず何かの役に立つ。例えば、まさに「役に立つ」という有用性を概念的に分析することができる。また、本作では「抵抗」が印象的な仕方で何度も提示されるが、哲学を存続させようとする努力においてこそ、哲学は生じるだろう。批判的思考としての哲学はあらゆる社会にとって自明の事実ではない。もし哲学がなかったらどうなるのか、私たちはいかなる野蛮に直面するのか、と自覚することが重要である。

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後藤氏は共同研究とは何かと批判的に言及。大学で共同研究が実施される場合、漠然とした主題のもとに、さまざまな分野の教員が論文を書き、成果出版する場合が少なくない。各人のたんなる寄せ集めではなく、共同で何かを成し遂げるとは何かと、研究者は反省する必要があるのではないかと問題提起した。
[ 2011/06/18 00:40 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】上智大学(赤羽研三、寺田俊郎、エルヴェ・クーショ、水林章、伊達聖伸)

2011年5月20日、上智大学にて、『哲学への権利』の上映・討論会がおこなわれ、赤羽研三(フランス文学科)、寺田俊郎(哲学科)、エルヴェ・クーショ(フランス語学科)、水林章(同)、伊達聖伸(同)が登壇した。上智大学の外国語学部フランス語学科、文学部フランス文学科および哲学科の共同企画という学科横断的な形式で、新入生向けのフランス入門講義の一環として実施された(約120名の参加)。

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(水林、西山、寺田、赤羽、クーショ、伊達)

寺田氏は臨床哲学の実践経験から、本作には親しみと違和感の両方を感じると告白。もし市民のあいだに哲学が浸透するならば、哲学教師はみな不要となるだろうが、だがこれは喜ばしいことでもある。寺田氏は大学の外で哲学カフェを展開しているが、大学の外に出るだけで本当に十分だろうか、制度の中にとどまりながら哲学の実践的運動をいかに創造するべきか、と問うた。

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(寺田、赤羽氏)

赤羽氏は、制度を問う制度という点で、国際哲学コレージュはきわめてデリダ的な組織である、と指摘。原発事故で電力制限が実施された現在こそ、哲学的な問いが発せられるべきだとした。「豊かさとは何か」「効率とは何か」「技術とは何か」、というような根本的な議論が必要だからだ。

高校の哲学教師の経歴のあるクーショ氏は、高校という言葉から古代と現代フランスを実に鮮やかに結びつけた。フランス語のlycée(高校)は日本語への適切な翻訳が難しい言葉で、そもそもアリストテレスが教えていたアテネ北東の学校に由来する。アリストテレスを含むペリパトス派(逍遥派)は学園の周囲を散歩を頻繁にしていたことで有名だ。散歩には時間がかかり、しばしば友人と一緒の散歩になりうる。散歩には即効性がなく、目的が定められていない無償の行為だ。散歩のイメージと哲学の活動はある意味で連関するのだ。ところで、現在のフランスの高校では、逆に、最終学年で哲学は一年限定の必修で、カリキュラムも限定されている。学習目的は大学入試資格試験(バカロレア)のためである。

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(クーショ、伊達氏)

また、lycée(高校)の語源はギリシア語のlycos(狼)であることも興味深い。都市国家にある学園の周囲の未開林には狼が生息しており、このことは学問の外にある危険を象徴する。これは必ずしも否定的なことではなく、学問は危険に立ち向かうことによってその境界が開かれていく営みなのだ。

水林氏は、アソシエーションの歴史に批判的に言及。拙著『哲学への権利』では、早稲田の討論会での彼の発言が引用されているが(50頁)、不十分な引用である。人権宣言において結社の自由が禁止されたが、それは近世身分制社会における、身分・団体に帰属するがゆえの権利主体の否定だった。国家と向き合う丸裸の個人が創出されたわけである。その後、「市民=シトワイアン」たちの共同体としてのフランスが安定するまでに一世紀を有した。「市民=シトワイアン」たちが自由に結びつくことが1901年のアソシエーション法によってやっと達成されたのだ。こうしたフランス近代の歴史的経緯を踏まえると、日本に「市民」は存在するのか、軽々しく「市民」という言葉は使用できないのではないか、と水林氏は問うた。

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(水林氏[左])

伊達氏は映画のエンドロールについて指摘。最後のクレジットではこれまでのすべての上映会会場と登壇者の名前が記載されている。映画を通じた哲学的実践が、何度でも回帰する「亡霊的」(デリダ)な仕方で表現され、この映画の本体をなしているのではないだろうか。また、伊達氏は宗教学を専攻しているが、「何派の研究ですか?」と問われて戸惑うという。何派の専門研究ではなく、むしろ「宗教とは何か?」と問うことが肝要だからだ。これは特定の哲学者や特定のテクストを専門研究することで、哲学を研究した気になってしまう危険性と重なるのではないか、とした。

映画上映は授業の一環なので新入生は参加義務があるが、その後の討論への参加は学生の自由に委ねられた。映画の最後にナイシュタットが、「大学の一年時に、新入生対象のデリダの特別講義が金曜、大教室で開かれた。デリダがいったい誰なのかもわからず、哲学と教育といわれてもさっぱりだった」と証言する。参加された上智の一年生も、「大学の一年時に、新入生対象の西山の映画上映が金曜、大教室で開かれた。西山がいったい誰なのかもわからず、哲学と教育といわれてもさっぱりだった」と感じた向きもあるだろう。ただ、かなり多くの学生が最後まで残ってくれて、熱心に議論を聞いてくれた。これほど多くのフランス語専攻の学生たち(いわば、同志!)と一緒に映画上映をしたのは初めて。とても充実した時間を過ごすことができたことに、学生の方々、先生方に深く感謝する次第である。
[ 2011/05/20 13:49 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】琉球大学(持木良太、佐喜真彩、金城國夫)

2011年3月4日、琉球大学にて、持木良太さんをはじめとする学生らの主催で上映・討論会「空(そら)の大学」がおこなわれた。春休みの閑散としたキャンパスだったが、学内外から35名ほどが集まった。

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(前日、古くからある栄町商店街で教員・学生とさっそく懇親会。閉店後、各商店のカウンターがテーブルとなり、即席の開放的な飲み屋に変わる。)

持木さんによる討論会の魅力的な告知文は以下の通り。
「一方、新自由主義経済の中で大学は企業や社会の圧力に押しやられて本来の大学としての機能を失いつつある。例えば、「シュウカツしなくちゃ!」と躍起になる学生にとって、大学は「高校」と「実社会」の間の単なる「つなぎ目」としてしか機能していない。だがそういう「廃墟」の大学にもまだ大学生が回収できる知は転がっている。それは学生が何かを持ち込める「空(から)の大学」であり、同時に重力に抗する可能性を秘めた「空(そら)の大学」かもしれない。」

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(佐喜真彩、金城國夫、西山雄二、持木良太)

佐喜間彩さん(法文学部4年生)は、ジャック・デリダ『条件なき大学』の拙訳を読み、「あらゆる我有化の権力への抵抗」「条件なき大学は当の無条件性を告知するいたるところに生起する」という引用から自分なりの大学観を語った。合理的な社会をつくるために、権力による監視が幅を利かせることがある。こうした事態を改変するために、やはり合理的な手法に訴えるだけでは効果は十分とは言えないだろう。さまざまな社会的制約の箍を外すために、大学はどこか「空(から)」であった方がよい。ただ、無批判に学生が大学のカリキュラムをこなし、制度に安住するだけでは、大学は空っぽで空虚なものに映る。「空の大学」はこうした虚無主義と隣り合わせだ。

持木良太さん(法文学部4年生)は、大学のモラトリアム的な雰囲気が決定的に失われていることから口火を切る。大学は学生が就職の目的意識をもつことを強く要求するが、大学での教育はキャリア・アップに直接結びつくわけではない。持木さんは、白石嘉治とビル・レディングズを参照しつつ、中世の大学と近代の大学を歴史的に比較。前者は教師と学生の組合的運動体であり、後者は国民文化を洗練させる制度であった。中世の大学の原像へと回帰する郷愁だけでは不十分だろうし、とはいえ、近代の大学の理念もまた失われている。だが、大学がそんな「空」であるからこそ、みんなが何かをもち込める場所であった方がよい。「大学とは何か?」「大学とは~である」という積極的な規定で、性急にこの「空」を埋めて、大学の可能性を制限しないようにしよう。むしろ「大学とは~ではない」という否定形で大学を問い続けたい、とした。

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金城國夫さん(教育学部4年生)は、映画の印象的なセリフ、「国際哲学コレージュは哲学が特権的な立場であることをまっさきに放棄した」を引用。大学もあらゆる特権に対して疑問を呈することができる場であってほしい。いまの社会では「大学に行かない、大学をやめることができない」という選択をすることは難しい。そうした大学の権威には居心地の悪さを感じる。

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準備運営に参加した大学生のみなさんは何度か勉強会を重ね、等身大の疑問を誠実に語ってくれた。学生が大学制度についてこれほど自覚的に考えざるを得ない状況は果たして幸福なことだろうか、との問いも頭をよぎった。ただ、日本の新卒大学生の就職率が60%で騒がれているが、沖縄県は30%程度。大学は就活のために役立たないという現状認識は切実なものがあった。学生による主催上映ということもあり、これまでの(本土の)大学での上映とはまったく異なる雰囲気が会場で感じられた。

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郊外にある琉球大学は広大な敷地を有し、キャンパスの中央には野鳥が生息する大きな池もある。ガジュマルの樹木が並ぶキャンパスでは、いたるところに緑が生い茂る。高台に位置するため、住宅地を見下ろす光景が開け、視界に入る空は広い。「空の大学」という魅力的なイメージが、このキャンパスの景色とともに着想されたことに納得した。

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(ある学生が「フランス人ジャーナリストの通訳がけっこう大変で…」とつぶやいたのを聞いて思わず、返答した。「エミリー・ギヨネさんでは?」「え、そうです…どうして?」ギヨネさんはル・モンド紙などに沖縄関係の記事を掲載しているフリーの記者で、以前大学問題の取材で知り合いになった。さっそく連絡をとり、翌日、一緒に辺野古海岸を訪れて、基地建設反対のテントで関係者に取材した。)
[ 2011/03/04 19:32 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】刊行記念イベント「彷徨うこと、考えること」(管啓次郎)

2011年2月26日、千駄ヶ谷のBibliothèque(ビブリオテック)にて、『哲学への権利』刊行記念イベントとして、管啓次郎(明治大学)氏と対談「彷徨うこと、考えること」がおこなわれた(約35名の参加)。

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管氏は自分の研究スタイルとして、ある作家、ある作品、ある旅、ある人物との出会いを同じものとみなし、同じレヴェルで書き続けてきた。とりわけ旅について書くことは実は難しい。旅の経験を文字にすると、誰かがどこかで書いたことと似ているように感じられるからだ。文字による抽象化は異なる旅の経験を類似させる。自分がどんなに独自の旅をしていると思っていても、それは誰かの反復でしかない、これは旅のエクリチュールにつきまとう試練である。

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日常のなかで異質なものに出会ったり、知らないことを知れば人間は傷つき、そこから思考が始まる。とりわけ、異国の人との出会いや外国への旅は最たる傷をもたらすだろう。自分の不慣れな外国語で交流し、生きなければならない状況において、私たちはまるで子供に帰ったようである。それは自分の人生を生き直す経験にも等しい。

この日は岡本太郎の100歳の誕生日であり、その「太陽の塔」で有名な大阪万博の経験が管自身の旅への衝動として回想され……また、2月に亡くなったグリッサンの追悼詩5編が朗読され、このクレオールの作家への想いが綴られ……と管氏の巧みな語りと圧倒的なパフォーマンスが止まらなかった!

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管はフィクションよりも日記や紀行、回想などのドキュメントに惹かれるという。それは「重力とともに生きるほかない存在」を記した文章であり、日付(時間)と土地の名(空間)のリズムが刻み込まれたエクリチュールである。私の方はデリダの哲学の活動をドキュメンタリー映画として表現した。文学と哲学におけるドキュメント=生の重力への志向がこの日の対話の通奏低音をなしていたと言えるだろう。
[ 2011/02/26 21:59 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】立命館大学(椎名亮輔、竹内綱史、加國尚志)

2011年2月25日、立命館大学(衣笠キャンパス)にて、椎名亮輔(同志社女子大学)、竹内綱史(龍谷大学)、加國尚志(立命館大学)とともに上映会がおこなわれた(主催:立命館大学文学部 共催:立命館大学間文化現象学研究センター 司会:亀井大輔)。会場の充光館地階のミニシアターは映像学部の創設にともなってつくられたそうだが、映画館並みの画質音質でありがたかった(約65名の参加)。

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まず、竹内綱史が本作への違和感をいくつか表明した。表題の「哲学への権利」は仰々しく聞こえるが、哲学する権利を大っぴらに主張するのは恥ずかしいことではないだろうか。本作ではカント以来の哲学の正当化の戦略、つまり、哲学以外のものを正当化するからこそ哲学は重要であるという構図を踏襲しているようにみえるが、哲学はそれほど尊大な営みだろうか。批判や反省、啓蒙のための哲学的な場づくりというが、それらは哲学の専売特許なのだろうか。むしろ哲学は自己中心的な求道にも近いものであり、自分のやりたいことをやっている者がわざわざ権利を主張するのは恥ずかしいことではないか。そして、哲学を表現する映像表現としてきれいすぎる、カッコよすぎるのではないか。

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(竹内綱史、椎名亮輔、加國尚志)

次に、椎名亮輔はフランスで国際哲学コレージュに関わった経験を語った。エリック・マルティがアルチュセール論を公刊した時に、コレージュで書評会がおこなわれた。アラン・バデュウはラカン理論を通じた読解は妥当ではないとした一幕があったという。国際哲学コレージュはアソシエーション法によって創設されているが、椎名氏はフランス滞在中に自ら日仏カップルのアソシエーションを立ち上げた経験を述べた。代表者と会計、規約だけでアソシエーションは簡単に設立でき、運営基金や事務所などは必要条件ではない。この自由と軽快さはしかし、組織の脆弱さと表裏一体である。フランスの背景として、哲学のステータスが高いこと、若手研究者の発表の場がないことが指摘され、こうした状況に対するコレージュの意義が示された。

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最後に、加國尚志は、ハンガリーの哲学者に対する弾圧を紹介した。政治的・経済的な状況によって〈哲学への権利〉は容易に制限される。そうした状況では、理性を公的に使用する〈啓蒙〉が重要だが、これをデリダなりに引き受ける実践が国際哲学コレージュではないだろうか。また、哲学と国家の関係を考えてみると、「哲学は痛烈な社会批判はするけれども、そうした哲学の立場は認められなければならない」という関係がソクラテス以来くり返されてきた。その際、晩年のフーコーが説いたように、真実を口外することが哲学の主要な根拠になるだろう。

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会場からは、「抵抗のための哲学という主張とともに、エンディングで「手をつなぐ」イメージが描かれるのは危険ではないか」「日本において〈哲学への権利〉を主張すべきか」といった質問があった。
[ 2011/02/25 21:51 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】刊行記念イベント「哲学と大学の未来」(鷲田清一)

2011年2月23日、大阪・アートエリアB1にて、鷲田清一(大阪大学総長)氏と対談「哲学と大学の未来」がおこなわれた。DVD書籍『哲学への権利』×『ドキュメント 臨床哲学』刊行記念イベントで約140名が集まった。(司会:本間直樹〔大阪大学〕。主催:大阪大学コミュニケーションデザイン・センター、カフェ・フィロ、勁草書房)

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鷲田清一氏は1997年に大阪大学の「倫理学」講座を「臨床哲学」講座へと名称を変え、従来の狭義の哲学研究を脱して、医療や学校といったさまざまな現場での対話から哲学の理論を再創造する試みを積み重ねてきた。10年間の活動を振り返って、「臨床哲学とは何か?」と本質的な答えを探り出すわけでも、マニフェストによって活動の方向性や展望を限定するわけでもなく、関係者各人の回想と反省によるドキュメントという形で著作が刊行された(『ドキュメント 臨床哲学』、大阪大学出版会)。今回は、臨床哲学の試みと、ドキュメンタリー映画「哲学への権利」の活動をめぐって、むしろ両者に共通する課題や問いが議論され、たいへん貴重な機会だった。

ドキュメントとドキュメンタリーに共通するのは「事実」に対する感性である。それはある出来事や誰かの語りといった事実を手放すことなく、しかも、新しい事実(実践的対話や上映運動)をさらに積み重ねることである。事実に対する手触りを忘れない姿勢が重視されるのだ。

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鷲田氏によると、これまでの哲学はしゃべりすぎた。哲学は物事の根拠をどこまでも問い続ける試みであるため、過剰に余分に語ってきた。哲学は今度は聴く力をもつべきである、という決意から、鷲田氏は関心のある「ケア」概念を確かめるために、尼僧や華道家、ダンス指導者などの異分野の人々に耳を傾けてきた。ただ、異分野の人だから黙って言葉を聞くことができたけれども、相手が哲学者だったらそうはいかなかったかもしれない。同じプロとしてとして言葉を返して論争になったかもしれない、という告白は示唆的だった。

昨年から日本はサンデル・ブームで、大学における対話型授業の成功例として好評を博している。ただ、アメリカの大学では、課題図書のかなりの頁数の予習やティーチング・アシスタントによる少人数のグループワークなどがおこなわれている。哲学のための周到な場づくりがなされているのであり、カリスマ講師の力量だけで対話が促進されているわけではない。日本でもサンデル式の授業を成立させようと思うならば、個人の芸に頼るのではなく、制度的な条件設定を練り直す必要があるだろう。

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鷲田氏は、「哲学は、世界とそれに向き合う自己についての問いの作法であり、基礎づけられた学問ではない。哲学にとっては学問ですら自明の出発点ではなく、その可能性と限界とがつねに問いに付せられねばならない」と言う。哲学が大学の枠内に収まることなく、現場との具体的な対話を志向してしまうのは、哲学のあり方そのものに関わることではないだろうか。

鷲田氏らの臨床哲学関係者との交流を通じて、誰かと共に思考の現場を創る試みの奥深さと喜びを実感することができた。

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[ 2011/02/23 01:05 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】刊行記念イベント「旅と思考」(池澤夏樹)

2011年2月18日、三省堂書店神保町本店にて、DVD書籍『哲学への権利』刊行記念として、池澤夏樹さんとの対談「旅と思考」がおこなわれた(約80名の参加)。

これまでの討論会は研究者を交えておこなわれてきたが、今回は書籍刊行記念として、背伸びをして憧れの作家・池澤さんに依頼してみた。面識はもちろんなかったので、了解の返信が来たときは嬉しかった。控室で理由を尋ねると、「勉強したかったから」という率直な返答だった。

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私は2001年の9月から2003年までパリ南方の郊外に留学をしていた。9・11の事件が起こり、世界の動乱を感じるなか、池澤さんが当時発信していたメールマガジン「新世紀へようこそ」(100回ほどの発信)を、理性の泉で乾いた喉を潤すように熟読していた。私が帰国してから、今度は池澤さんが2004年からパリ郊外で生活を始めた。滞在記『異国の客』『セーヌの川辺』(ともに集英社)の連載は興味深く読み、共感できる点が少なくなかった。こういうわけで今回の相手として池澤さんに登壇をお願いした。

池澤さんは映画での風景に対する個人的な感慨から話を切り出した。フランス社会においていかに哲学が具体的に根付いているのか。人間がさまざまな事象について理詰めで考える努力をする。フランスには知性によって社会を運営するという責務が感じられる。具体例として、世界的なベストセラーになった子供向けの哲学書、ブリジット・ラベ、ミシェル・ピュエシュ『哲学のおやつ』(全三巻、汐文社)が参照された。日常生活の事例を理性的に考えていくこの小さな絵本は、フランス人の哲学の縮図だろう。理系での数学の立場のように、人文学において哲学は真理を探求するときに立ち帰っていくべき学問として機能しているのである。

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通常、作者は孤独に本を書き、読者は孤独に本を読む。両者のあいだには直接的な関係はない。また、書きあがった著作に関して、作者はもはや作者ではない。加筆修正を施せる段階までが作者であって、刊行された本に対しては筆頭読者でしかない。その意味で、今回の映画と上映運動において、西山は作者権を保留している状態だった。討論会で映画の周辺ににじみ出す議論までも含めて西山の作品、という大変興味深い事例であると池澤さんは評した。

大学の研究者たちとは異なって、池澤さんは「野生の理性」とでも言うべき鋭敏な角度から印象的な言葉を発していた。「川が流れて渦ができるが、渦の形は流れがあるからこそ生じる。制度は運動からしか生み出されない」。「「世界」という言葉を使った途端、その根底にある普遍的なものを説明しなければならなくなる。たんにローカルな事実の集積が「世界」なのではないから」……等々。

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今回の対談には「旅と思考」という題をつけた。『セーヌの川辺』で圧倒的なのは聖フーゴーの文句。
「全世界は哲学する者たちにとって流謫の地である。〔…〕祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。」
固定したキャンパスをもたず、世界のあらゆる場所でプログラムを遂行しようとする国際哲学コレージュは、こうした流謫の地の実践なのかもしれない。

DVD書籍の初回の刊行記念イベントに池澤さんをお招きできたのは喜ばしいことだった。池澤さんのフランスへの愛着と、池澤さんなりの哲学的実践をうかがい知ることができた。自分なりに旅を続けていれば、たとえどんなに短い時間であっても、旅の同伴者とどこかで出会い、確かな言葉を交わすことがある――この至極単純な悦ばしい事実を再確認した夜だった。

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[ 2011/02/18 01:25 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】東北大学(勝守真、寺本成彦、坂巻康司)

2010年12月17日、東北大学(川内北キャンパス)にて、勝守真(秋田大学)、寺本成彦(東北大学)、坂巻康司(同)とともに上映会がおこなわれた。東北地方での初の上映会で、秋田や山形、岩手など近隣県からも何人も足を運んでいただき、60名ほどが集まった。寒い中、遠方より足を運んでいただいた方に謝意を表わしたい。

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(左から 坂巻康司、寺本成彦、勝守真)

勝守真氏は、日本の現実と比べて、映画は夢物語を語っていることに驚いたと口火を切った。旧来の学問分野が成り立たなくなると同時に、カルチュラル・スタディーズ的な学際的研究もまた難しくなっているのではないか。映画では「抵抗」が強調されるが、コレージュが掲げる「領域交差intersection」には戦いの要素はあるのか。異なる学問分野が仲良く混ざり合うという心地よさにも聞こえる。

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寺本成彦氏は、デリダの支持者として、また、近年の人文学の危機という問題意識から登壇しているとまず、自らの立場を表明した。デリダは言葉に対する執拗な反省をおこなうことで、文学への揺るぎない信念を指し示してくれる。また、近年、国際や人間といったキーワードを加えて新しい学部学科が創設されているが、それはたんなる融合や混合以上の何かを生み出しているだろうか。

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坂巻康司氏は、この映画は巡回上映という形式で思想の運動を成功させているが、しかし、この映画自体に運動性が欠如しているのではないか、と難点を指摘した。

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会場からは興味深い質問が相次いだ。「秋田の近所の図書館にはカントの『純粋理性批判』さえ所蔵していない。哲学の可能性が身近に感じられない。日本では哲学は専門的なもので、一般人の意識からは遠く、できれば避けたいもののように思える」が最後の問い。登壇者3名が誠実に応答し、私はこう答えた――「哲学は専門的であると同時に、「知への愛」として思考する欲望一般をも指す。「哲学への権利」は奇妙な言葉で、「への」という表現によって「哲学とは何か」を問う。哲学の可能性があるのかないのか、とは別の意味で、「哲学への権利」は開かれており、それをあなたに伝えるために私は東北までやって来た。」
[ 2010/12/17 09:24 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

【報告】首都大学東京での討論会記録

2010年11月17日、首都大学東京(南大沢)にて、福間健二(同大学・表象言語論)、石川知広(仏文学)、岡本賢吾(哲学)、宮台真司(社会学)とともに、映画上映・討論会が実施された(人文・社会系FD委員会部会主催)。討論会の記録を掲載しておきます。(テープ起こし:大宮理紗子)
[ 2010/11/17 23:26 ] 上映報告(国内) | TB(0) | コメント(-)

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