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首都大学東京での活動 公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

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【報告】馬場智一「レヴィナス『倫理と無限』を読む」

2011年7月13日、首都大学東京にて公開セミナー「レヴィナス『倫理と無限』を読む」が開催された。馬場智一(東京外大)氏に基調講演をしていただき、西山が司会・応答を務めた。今学期、西山の演習では『倫理と無限』を精読しており、その最後を飾るセミナーだった。大震災や原発事故のカタストロフィの最中で「倫理と無限」の主題にとり組むことになり、受講した学生の豊かな発表と議論とともに今期の演習は実に濃密だった。演習講義の最終回であるがゆえに応用的で、一般公開セミナーであるがゆえに入門的――そもそも、「哲学への入門」とは何か――である会にしようと準備した。当日は他大学の学生や一般の方々など45名ほどが詰めかけた(主催:首都大学東京都市教養学部フランス語圏文化論)。

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馬場氏は、レヴィナスの略歴、ハイデガーの概略を説明した後で、両者の存在論の差異を際立たせつつ、レヴィナス哲学の骨子を丁寧に説明した。ハイデガーは現存在(人間)と世界の関係から問い始めるのに対して、レヴィナスは世界のなかに実存者が成立する地平から問う。ハイデガーにとって「不安」とは有限な人間が死(無)へと臨む先駆的決意を抱くときに感じられる情動であるが、レヴィナスにとっては人間がどうしても自分の身体を生きざるをえないという自己脱出の不可能性(無になることがなくつねに何かが〈ある〉)を示す。

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レヴィナスは、他者がその他者性によって訴求することを〈顔〉と名付ける(〈顔〉は強い表現なので、熊野純彦氏が言うように、「けはい」と解釈した方がよいかもしれない)。〈顔〉はその脆弱さでもって「汝殺すなかれ」と根本的な仕方で訴える。ただし、レヴィナス哲学は、「~しなければならない」「~してはならない」という規範倫理学ではない。〈顔〉との対面は、その他者を殺害できる可能性をも示すがゆえに両義的である。「殺すことができる」と思った瞬間にその当人は、逆説的にも、「倫理的な」問いのなかにいるのだ。

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〈顔〉についてはさまざまな議論が展開された。他人の顔を見ながら殺害がおこなわれる事例は数多い。その際に殺害者が見ている「顔」とは何だろうか。〈顔〉との対面が起こらないならば、それは殺人ではなく、たんなる物理的な破壊に等しいのだろう。レヴィナスにとって、植物や動物に対しては〈顔〉の対面がない以上、倫理的な関係はないのだろう。収容所で非人間的なドイツ兵に反応しなかった犬ボビーは唯一例外的だ。また、現われない〈顔〉の対面をいかにして私の内面は把握するのだろうか。逆説的にも、私にとっての秘密を介してしか〈顔〉と関係することはできないのではないか。

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最後に馬場氏は、印象的な仕方で、東日本大震災においてレヴィナスの倫理はどういう意味をもつのかについて語った。
「他者からの呼びかけと言えば、フランス語でappel(呼びかけ)は「電話をかけること」をも意味する。私たちが被災地の親族や友人に電話をかけるのは、自分のなかに他者からの呼びかけをすでに受けとってしまっているから。現地に入って支援活動に従事する者も誰かにこうしろと言われてやっているわけではなく、呼びかけを受けとってしまったがゆえに行動してしまっている。そして、被災地に知人がいなくても、現地にボランティアにいかなくても、遠く離れた地でいかに無関係にみえようとも、日本や世界の各地で多くの人が被災地のことを気にかけている。レヴィナスの倫理は「~すべきである」という規範を前提とはしない。他者からの訴求力に反応するとはどういうことなのか、と倫理を思考する。呼びかけに反応するかしないかという主体的な選択の余地はなく、私たちは呼びかけを受けとってしまっているということ――ここに〈顔〉の呼びかけの最たる重要性がある。」
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[ 2011/07/13 16:11 ] 首都大学東京での活動 | TB(0) | コメント(-)

ゼミ公開拡大版「笑いとは何か?」

2010年12月15日、首都大学東京(南大沢)にて、ゼミ公開拡大版「笑いとは何か?」が開催された。通常のゼミメンバーに加えて、社会人や都内の複数の大学生ら20名ほどが集まった。

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まず、大宮理紗子(心理学専攻)さんが、発表「大きな笑いへの小さな考察」において、笑いに対して多角的かつ的確な考察を加えた。動物は現実と密着して生きる動物とは異なり、人間だけが世界を対象化して笑う。笑顔は人類共通のコミュニケーション手段である。しかし、笑顔は少しの変化でグロテスクな表情に映り、恐怖や怒りを表わすことがあり、実は非常に微妙な身体表現である。

笑いはその原因とともに分類され、①「快の笑い」(生後一カ月の乳児が授乳後満足して出る人間の基本的な笑いから成長とともに発展した笑い)、②「社交上の笑い」(人間関係を円滑に行うための技術としての笑い)、③「緊張緩和の笑い」などに大別される。 これら三区分はさらに細別され、「本能や期待の充足による笑い」(おなかいっぱい! 課題をやり終えた!)、「優越の笑い」「不調和の笑い」「価値逆転・低下の笑い」(飼い猫に無視される…)、さらには、「協調の笑い」(あいさつ笑い、つられ笑い)、「防御の笑い」「攻撃の笑い」(ブラックジョーク)、「価値無化の笑い」(笑ってごまかす)などが考えられる。これらの分類は単一的ではなく、通常は複数の要素によって笑いは生じるだろう。

「笑い」は、一人の世界の中では生み出されえず、つねに他者を必要とする。そして、誰か、何かとの関わりの中(それは恐怖体験かもしれないし、快楽を得るような体験かもしれない)でより大きなものへと構築されうる、というのが大宮さんの結論。

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次に、西山雄二が発表「真理、笑い、神」をおこなった。大宮さんが笑いを「世界のなかの他者」との関係として規定したのに対し、西山は笑いを「世界の他者」を創造する行為として説明した。

多種多様な笑いに関する考察はまさに人間論そのもので、人間に単一の答えがないように笑いにも単一の答えはない。ただ、ホッブズ、スタンダール、ボードレール、柳田国男などの笑い論にみられるのは、嘲笑や優越による笑いの規定である。ただこれは人間の人間や動物に対する笑いであり、人間主義的解釈の域を出ない。言葉遊びやナンセンスなどの言語表現から生じる笑いをどう考えればよいのだろうか。

動物とは異なり人間だけが笑う、そして人間だけが宗教をもつ。だとすれば、笑いと超越的な存在(神など)との関係はいかなるものだろうか。例えば、キリスト教において笑いはつねに問題含みで、大笑いや高笑いといった動物的な仕草は愚者の振る舞いとして忌避されていた。キリスト教の価値転換を図るニーチェはそれゆえ、反キリストとして笑いの預言者ツァラトゥストラを登場させる。ツァラトゥストラはパロディによってキリスト教を破壊し、さらに笑いと舞踏によって人間の創造を試みるのだ。

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最後に参照されたのは深沢七郎「風流夢譚」。天皇家の断首を描くこの小説は右翼の反感を買い、発売元の中央公論社社長・嶋中宅への暴行事件に発展する(右翼少年によって家政婦が刺殺、夫人が重傷)。この小説に対して天皇家の生々しい処刑が問題とされるが、むしろ短歌のパロディこそが重要ではないだろうか。天皇が伝統的に保護してきた短歌を揶揄し、主人公はその中身の空虚さを指弾する。これは天皇の根源のパロディであり、滑稽な模倣はオリジナルな世界を二重化し、その正統性を揺るがす。世界の他者を生み出すことこそが、宗教的ファナティズムに拮抗する文学的フィクションの自由と権利である。

そして、坂巻美穂(仏文学専攻)さんがコメントを加え、モリエールの文脈に即して論点が展開された。とりわけ、貴族と平民を共に笑わせるための技法やモリエールによる自作の自己パロディの事例が興味深かった。その後の充実した質疑応答も含めて、笑いの絶えない実に豊かな年末の会だった。
[ 2010/12/15 23:54 ] 首都大学東京での活動 | TB(0) | コメント(-)

首都大学東京2010年度後期演習(西山雄二)サルトル / デリダ

首都大学東京では10月から後期授業が開講されます。今回の演習担当は以下の通りです。

火曜2限10.30-12.00(後期)「フランス語圏文学演習」
サルトル『文学とは何か』を読む
ジャン=ポール・サルトルが著わした20世紀の代表的文学論『文学とは何か』(1948年)を通読しつつ、今日の「文学=書くという公的表現行為一般」の可能性を探る。「文学」の概括的な理解にとどまらず、作家論、読者論、表象文化論、文体論、ジャンル論、記号論、意味論といった文学をめぐる各論、そしてサルトルの実存主義哲学とその思想的背景にも踏み込んで知識を深める。考察の指針となるのは、まさにサルトルが『文学とは何か』の各章の表題として掲げた明快な問いである―「書くとはどういうことか?」、「なぜ書くのか?」、「誰のために書くのか?」
 10/5 ガイダンス 10/12 サルトルとは誰か? 10/19- サルトル『文学とは何か』読解

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水曜5限16.20-17.50(後期)「フランス語圏文化論B」
デリダのバタイユ=ヘーゲル論通読
『エクリチュールと差異』に収録されたジョルジュ・バタイユ論「限定的エコノミーから一般的エコノミーへ 留保なきヘーゲル主義」を通読することで、デリダの脱構築思想のエッセンスを紹介する。デリダは、止揚、否定性、至高性、労働といった概念や、「主人と奴隷の弁証法」や「絶対知」といったヘーゲルの問題系を議論の俎上に載せる。デリダとヘーゲルとの関係、つまり、脱構築と弁証法の関係、差延と止揚の関係を考える上での重要テクスト。
 10/6 ガイダンス 10/13 ヘーゲルとは誰か? 発表:平山雄太
 10/20 バタイユとは誰か? 発表:八木悠允
 10/27- デリダ「限定的エコノミーから一般的エコノミーへ」の読解

これらと関連して、首都大学東京(南大沢キャンパス)では以下の催事を開催します。
 11/17日 映画「哲学への権利」上映・討論会
 12月中旬 彦江智弘(横浜国立大学)講演会「文学とは何か?」

[ 2010/10/03 11:09 ] 首都大学東京での活動 | TB(0) | コメント(-)

【報告】2010年度前期デリダ・ゼミ(@首都大学東京)終了

首都大学東京にて開催されている2010年度前期水曜5限の演習「フランス語圏文化論――ジャック・デリダ入門」が終了した。首都大に赴任して最初の演習だったが、参加者の方々の熱意と努力によって大変満足のいく成果を得ることができた。

冒頭で入門的講義を数回おこなった後、『たった一つの、私のものではない言葉』、『歓待について』、『声と現象』、『留まれ、アテネ』、『アポリア』、『条件なき大学』、『友愛のポリティックス』、『他の岬』と学生発表をもうけた。各著作をすべて通読するのは大変だろうから、重要個所30-40頁程度を毎週指定し、参加者にさほど負担をかけないようにした。一冊の著作をじっくり精読する醍醐味は失われたかもしれないが、しかし、毎週異なるテクストをテンポ良く読んでいくスリリングさを味わうことができた。

学部生相手にデリダの演習など成立するのだろうか。デリダのテクストには独特の難しさがある。デリダは基本的に誰かの思想やテクストに即して脱構築を実践するため(寄生虫的身振り)、彼自身の哲学体系を抽出することは難しい(デリダ哲学の現前不可能性)。それゆえ、演習でもデリダが扱っているテクストや哲学史などに遡って理解を深めておく必要が生じる。哲学の歴史的背景も同時に理解しておかなければならず、学部生には骨の折れる演習だったことだろう。

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参加者は学内生と学外参加者が半々で、つねに計12名ほどだった。学外から学生や社会人が(わざわざ南大沢まで)足を運んでくれるのは大変嬉しいことだが、学内生とのバランスが当初から気がかりだった。意識の高い学外参加者によって演習の水準が極端に引き上げられないかどうか。学外者は休まずに定期的に参加してくれるかどうか。結果的に、双方のバランスは上手くいき、演習全体に活気が出た。とりわけ、公開イベント「『条件なき大学』を読む」の際にはさらにいろいろな学外参加者が集い、刺激的な会となった。

授業の最後にアンケート・シートを書いてもらい、感想を徴集することがある。しかし、個人的にこのやり方には不満だ。学生のさまざまな感想はきわめて興味深く、内容豊かであるのに、回収した感想が学生には還元されないからである。また、理解したばかりの内容に対して授業の最後の数分で感想を求めることには少し無理がある。そこで演習では感想を後日ツイッターで数回つぶやくか、メールで送ってもらうことにした。すべての感想は集約して、次週印刷して参加者に配布したが、こうした意見の循環はとても重要である。
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就任してまだ4カ月だが、大変充実した演習を実施することができた。参加された方には感謝と敬意を表したい。今後もこのデリダ・ゼミは継続していきたいと考えている。後期は、『エクリチュールと差異』に収録されたジョルジュ・バタイユ論「限定的エコノミーから一般的エコノミーへ 留保なきヘーゲル主義」を通読することで、デリダ―バタイユ―ヘーゲルの関係をめぐって議論する。
[ 2010/07/22 00:39 ] 首都大学東京での活動 | TB(0) | コメント(-)

【報告】「ジャック・デリダ『条件なき大学』を読む」@首都大学東京

2010年6月30日ゼミ拡大版「ジャック・デリダ『条件なき大学』(月曜社)を読む」 が首都大学東京で開催された。大宮理紗子(首都大学生)さんが発表して、守屋亮一(早稲田大学生)、伊藤拓也(東京都立大学生)さんがコメントを寄せた。大学情報研究会との共催で、30名ほどが参加した。首都大学東京に着任してから最初のイベント開催であり、しかも、首都大学東京という改革の深刻な歴史をもつ大学において大学論イベントを実施するという点で重要な会となった。

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大宮さんは『条件なき大学』の的確な概説をしつつ、大学とはいかなる場なのか、いかなる場でないかと問うた。また、自分なりの視座から、情報化社会における大学の意義、大学における無条件と無制約の違いについて問題提起をした。

守屋さんは、大学には雑多性が必要だが、勉強する学生が減少するという悪い方向にあるのではないかと問うた。それは大学が就職相談所と化しており、高校と大学の接続が上手くいっていないからではないか。大学、とりわけ人文学の意義は、たとえ独りでテクストを読んでいたとしても、ある種の社会的な交わりが生起する点にあるとした。伊藤さんは、首都大学東京の改革の過去に触れて、自分の信じるところを公言しない教員の沈黙によって改革が後押しされたのではないか、と問うた。

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質疑応答の時間で、ICUのMさんは、伊藤さんが教員を断罪する立場はいかなるものか、と問うた。また、大学においては、デリダが指摘するような信仰告白に収斂することなく、具体的なプロジェクトを制度的に提起してこそ、信仰告白が出来事であるかのような瞬間が訪れるのではないかとした。東京大学のKさんは、アーレントの『人間の条件』とデリダの『条件なき大学』を的確に比較して、労働/仕事/活動という三幅対に即して、多数性が保持される言論の場はいかにして開かれるのかと問うた。和光大学のSさんは大学をいかなる場と空間として構想すればよいのかとした。首都大学のMさんは、各人がある種の寂しさを感じながら勉強するだけという現状において、その寂しさから出発する共同性をつくっていくことが重要だとした。首都大学のYさんは、なぜ大学が存在しなければならないのか、と本質的な問いを発した。首都大学のFさんは、大学が雑多な場でありにくいのは、入学する際に各人が明確なアイデンティティをもって入学するからではないかとした。

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充実した発表とコメントによって、議論の可能性が豊かに開かれた。ただ欲を言えば、たくさんの質疑を受けたにもかかわらず、登壇者はほとんど応答できなかった。発表するだけならたんなる自己主張に終わってしまう。登壇者はフロアの質問に対して応答を返す義務があるのではないか。

大学内外からのさまざまな方の参加によって、教室は独特の雰囲気に包まれた。こうした学術イベントがいかなる形で実施されうるのか――それはその大学における出会いの潜在的可能性を端的に指し示す。首都大学東京は雑多で人々の出会いを誘発するいかなる場でありうるのか。今日はそうした学問の「出来事性」の肌触りを実感することができた。参加された方々に感謝する次第である。
[ 2010/06/30 23:18 ] 首都大学東京での活動 | TB(0) | コメント(-)

首都大学東京での授業予定――「カイカク」以後の20世紀フランス思想

今週、首都大学東京(南大沢キャンパス)での講義と演習が開始されました。概要は以下の通り。フランス語原書の使用はなく、配布プリントか日本語訳テクストを使用します。関心のある方は、ynishi[at]tmu.ac.jp(西山)まで。

首都大学東京の前身、東京都立大学の仏文専攻は、20世紀フランス思想の研究教育活動において大きな役割を果たしてきました。デリダ『グラマトロジーについて』やドゥルーズ『ニーチェと哲学』の訳業で知られる足立和浩氏やクリステヴァ研究の西川直子氏、レヴィナス研究の合田正人氏、反ユダヤ主義研究の菅野賢治氏らが教鞭をとられていました。またここは、バタイユ研究の西谷修氏、レヴィナス研究の内田樹氏、ブランショ研究の谷口博史氏らを輩出した研究科でもあります。数年前に都知事によるカイカクの騒乱があってから、仏文科の教員・学生数は激減し(教員数12人→3人)、20世紀フランスを担当する教員は不在となっていました。伝統ある貴重なポストゆえに責任感は重いと言わざるをえませんが、自分なりに心と力を尽くします。

火曜2限10.30-12.00(前期)「フランス文学講義」
20世紀フランスの文学と思想からみる人間の形象の変容

20世紀のフランスの文学・批評・思想の推移を通じて、人間存在の形象がいかに変容してきたのか、人間の限界と可能性がいかに考察されてきたのかを、毎回、オムニバス形式で概観する。プルースト、ヴァレリー、シュルレアリスム、バタイユ、ブランショ、サルトル、カミュ、ブランショ、アンテルム、バルト、フーコーを各回で解説。途中、映像資料を交えた「68年5月革命」に関する回も設定。

火曜2限10.30-12.00(後期)「フランス語圏文学演習」
サルトル『文学とは何か』を読む

ジャン=ポール・サルトルが著わした20世紀の代表的文学論『文学とは何か』(1948年)を通読しつつ、今日の「文学=書くという公的表現行為一般」の可能性を探る。「文学」の概括的な理解にとどまらず、作家論、読者論、表象文化論、文体論、ジャンル論、記号論、意味論といった文学をめぐる各論、そしてサルトルの実存主義哲学とその思想的背景にも踏み込んで知識を深める。考察の指針となるのは、まさにサルトルが『文学とは何か』の各章の表題として掲げた明快な問いである―「書くとはどういうことか?」、「なぜ書くのか?」、「誰のために書くのか?」

水曜5限16.20-17.50(前期)「フランス語圏文化論A」
ジャック・デリダ入門

ジャック・デリダは脱構築の思想家として知られているが、彼の仕事は哲学のみならず、文学、政治、言語、倫理、教育、芸術、精神分析など多岐にわたるものだった。デリダの思想がいかなる意義をもつのかは、20世紀の思想の風景を眺望するための重要な問いであり続けるだろう。本講義では、まず脱構築をめぐる入門的な解説から出発して、言語や文学、倫理、教育、政治といった今日的な主題をテクストに即して具体的に検討する。

水曜5限16.20-17.50(後期)「フランス語圏文化論B」
デリダのバタイユ=ヘーゲル論通読

『エクリチュールと差異』に収録されたジョルジュ・バタイユ論「限定的エコノミーから一般的エコノミーへ 留保なきヘーゲル主義」を通読することで、デリダの脱構築思想のエッセンスを紹介する。デリダは、止揚、否定性、至高性、労働といった概念や、「主人と奴隷の弁証法」や「絶対知」といったヘーゲルの問題系を議論の俎上に載せる。デリダとヘーゲルとの関係、つまり、脱構築と弁証法の関係、差延と止揚の関係を考える上での重要テクスト。
[ 2010/04/16 20:12 ] 首都大学東京での活動 | TB(0) | コメント(-)

離任・就任

ryu3月末をもって、東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」での特任講師の仕事を終えました。UTCPでは小林康夫・拠点リーダーのもとで数多くのことを学びました。UTCPという日本におけるもっとも活気ある先鋭的な人文学の研究拠点を離れることは、実はとても心残りなことでもあります。


本日4月1日、首都大学東京・都市教養学部(フランス文化圏コース)の准教授に任命されました。新天地での研究教育活動に心と力を尽くします。

追記:4月4日付でUTCP離職に際したブログ記事「【UTCP on the Road】旅の力」を掲載しました。http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2010/04/utcp-on-t-5/
[ 2010/04/01 21:49 ] 首都大学東京での活動 | TB(0) | コメント(-)