上映報告(海外) 公式HP映画「哲学への権利――国際哲学コレージュの軌跡」

本ブログでの情報はすべて個人HPに移動しました。今後はそちらでの閲覧をお願いします。⇒http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/

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【報告】ライプツィッヒ大学(ウルリッヒ・ヨハンネス・シュナイダー、小林敏明、斎藤渉)

5月3日、ICE特急列車で約1時間移動して、中世以来の学芸の町・ライプチッヒに到着。商業や金融で栄えてきたこの小都市では、17世紀に印刷や出版も盛んとなり、長い間ドイツの出版物の半数がこの街で印刷されていた。トーマス教会専属のオルガン奏者兼指揮者としてバッハが長年活躍したことでも知られている。

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(トーマス教会前のバッハの銅像)
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(ライプチッヒ大学図書館)
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(哲学科前の掲示板)

ライプチッヒ大学はハイデルベルク、ケルンに次いでドイツで3番目に古い。アルベルチーナ図書館のホールにて映画が上映され、30名ほどが参加した。討論では、同大学のウルリッヒ・ヨハンネス・シュナイダー(Ulrich Johannes Schneider)、小林敏明、斎藤渉が登壇した。(企画運営:Fabian Schaefer)

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学生時代、フーコーのもとで研究していた図書館長のシュナイダー氏は、1989-92年に国際哲学コレージュのディレクターを務めていた。ドイツでフーコーは冷遇されていたため、優れた業績に恵まれながらも、シュナイダー氏はなかなか正規ポストに就けなかったという。最終的に得た図書館長職は、ドイツでは副学長にも匹敵する役職である。

シュナイダー氏は、哲学のための自由な場所を創設するというデリダの意図は、映画で十分に表現されているが、その背景を説明しておきたい、とした。ドイツと比べて、フランスでは高校や大学で哲学はやはり高い地位にある。哲学の活動を根本的な仕方で開放するためにデリダは尽力した。例えば、コレージュの国際性は当時、革命的で非凡な試みである。デリダはテクストそれ自体にこだわり、自明にみえるテクストの繊細な読み方によって哲学を開放したと言える。ドゥルーズが哲学以外のものとの関係において哲学を見い出したのに対して、デリダは哲学の核心にとどまり続けることで哲学の外部へと抜け出したのではないか。その意味で、デリダはたんに哲学的な態度を貫いただけでなく、哲学を急進化することできわめて政治的な振る舞いをも示したと言える。次回はこのデリダ哲学の政治的な急進性に関する映画を製作していただきたい。

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斉藤渉は、「なぜ日本人研究者がフランスの国際哲学コレージュに関する記録映画を製作しなければならないのか」と疑問を抱くかもしれないドイツの聴衆に対して、個人的な注釈を加えた。本作を観ると、研究教育をめぐる制度と権力の関係に気づかされる。斉藤自身は監督・西山と同世代で、日本の大学改革という共通の経験をもつ。そうした経験を経て映画を上映し続ける「勇気」に、聴衆は共鳴することができるのではないか。

小林氏は、60年代を経て日本では哲学の寺子屋や水俣病に端を発する自主講座が在野に開かれたが、そうした大学制度外の知的運動体をどう考えるのかと問うた。また、デリダとハーバーマスが比較されて、文学と政治の対立で評価されることがあるが、本映画を観て、教育への政治的介入という点でデリダの方がある意味で政治的に成功していたのではないか、とコメントした。

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討議は、通訳者を立てずに、参加者全員が理解できるように、話者自身が順次2か国語で話すという方式で実施された。登壇者と聴衆はドイツ語+日本語、ドイツ語+英語、英語のみ、と各自が異なる仕方で議論をした。効率は多少悪いかもしれないが、その都度、異なる音調と音色で言葉が交わされる緩やかな経験は興味深く、古都ライプチィヒの落ち着いた雰囲気とどことなく調和している気がして心地良かった。
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[ 2011/05/03 08:13 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】ベルリン・フンボルト大学(マーカス・メスリング、斉藤渉、大河内泰樹)

2011年のゴールデンウィークはドイツに滞在し、映画「哲学への権利」の上映を4か所で企画している。東のベルリンから西のボッフムまで連日ドイツを横断しながら、4つの大学で上映・討論をおこなう。共同研究者である斉藤渉氏(大阪大学)と大河内泰樹氏(一橋大学)が同行している。

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(「ユダヤ人犠牲者記念館」――ブランデンブルク門付近に設立された2711本のコンクリート製のブロックのモニュメント。ブロックの高さと床面が不揃いなので、歩行すると不安定な気分になり、断続的で不均衡な時空の感覚を覚える。地下にはホロコーストの史実を解説した展示室がある。モニュメントは犠牲者追悼のためのものだが、極度に重々しい雰囲気はなく、市民がブロックの上で談笑している姿もみられる。)

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(「ユダヤ博物館」――ダニエル・リベスキンドの建築で知られる、2001年開設の博物館。「ホロコーストの軸」「亡命の軸」「持続の軸」と呼ばれる地下通路で構成されており、「空虚(Void)」と呼ばれる空っぽの空間が建物の随所を貫く。この「空虚」は大虐殺がもたらしたユダヤ人の空白を表現する。とりわけ、「記憶の空虚」と呼ばれる場所に設置された彫刻家メナシェ・カディシュマンのインスタレーション「落ち葉」が圧巻。)

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(左・フィヒテ、右・ヘーゲルの墓石)

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フンボルト大学は、教育改革者・言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルトによって1810年に設立された近代の代表的な大学。「研究と教育の統一」や「大学の孤独と自由」といったフンボルト理念が、近代的大学の理念として伝播したとされる。5月2日の映画ホールでの上映会には、若きフンボルト研究者マーカス・メスリング(Markus Messling, ポツダム大学)が登壇し、40人ほどが参加した(企画運営・今崎高秀)。

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(マルクスのフォイエルバッハ・テーゼ「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけである。肝心なのは世界を変革することである」が刻まれた中央階段。)

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マーカス・メスリングのコメントは示唆的だった。ドイツではハーバーマスの批判もあってフランス現代思想は過小評価されており、90年代になってやっとポストモダン思想という括りで正当に受容され始めた。フランス現代思想は政治的な含意を込めて解釈されることが多いが、本映画にはデリダを脱政治的に理解する可能性があるのではないか。また、本映画にはデリダやその時代に対するメランコリーが漂っている。それは監督・西山自身のメランコリーでもあるだろう。デリダに影響を受けたメスリング氏自身もまた、このメランコリーを共有している。偉大な哲学者がもういない、というメランコリーから何を自覚的に学ぶべきだろうか。いかに抵抗すべきだろか。このメランコリーへの抵抗を試みない限り、次世代の哲学への希望はないだろう。

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(メスリング、西山、大河内、斉藤)

ドイツでの最初の上映が無事に終わり、18人ほどで懇親会が盛り上がった。翌朝からライツィッヒに移動し、連日の巡回上映が始まる。
[ 2011/05/02 14:49 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

旅への誘い ― 映画『哲学への権利』、韓国での巡回上映を終えて

現に自分が今いる場所とは異なる他の場所に行きさえすれば、万事がつねにうまくいくだろう、と思われる。この居場所を変えるという問題は、私が自分の魂と絶えず議論を交わすという問題のひとつだ。―ボードレール「この世界の外へなら何処へでも」

2010年9月27-28日の韓国での映画上映と討論会は濃密な2日間で、質疑応答を含めて実に実りある成果をあげることができた。東京大学UTCP以来、韓国への出張は4度目になるが、韓国の友人たちのおかげで毎回、豊かな学術交流に成功している。心より感謝する次第である。

これまで私は独りで映画上映を続けてきた。だが今回の旅は科研費「啓蒙期以後のドイツ・フランスから現代アメリカに至る、哲学・教育・大学の総合的研究」によって実施され、宮崎裕助氏、藤田尚志氏が同行した。同輩の若手研究者でチームを組み、寝食をともにしながらの海外出張は、各々の思考を共鳴させる意味でも良い経験だった。来年以降もドイツ、イギリスと海外上映が続くが、この科研費チームの共同によって学術交流を成功させていきたい。

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さらに特筆すべきは、今回の上映に合わせて、学生や一般市民ら10名ほどが韓国に旅立った点である。彼らは映画上映を通じて知り合った人々だが、韓国が近隣であることもあり、多数の日本人同行者が上映会に参加した。それは移動ゼミのようでもあり、懇親会でも日本と韓国の人々のあいだで濃密な交流がおこなわれた。発表者だけでなく、聴衆も含めて国際的な交流が、規定の学術プログラムとしてではなく、自発的な形で達成されたたぐい稀な好例だろう。

そして、今回、映画を上映させていただいた場所がそもそも魅力的な場所だった。一方で、大学制度の外に在野の知的共同体を創設したスユ+ノモ。他方で、国家の潤沢な支援を受ける、大学制度圏の重要拠点であるHK事業の延世大学韓国学術研究院。在野と大学、運動と制度、国家や資本の外部と内部といった両極の場所で、本作をめぐって議論がなされた意義は大きい。両者は韓国において、人文学の新たな枠組みを模索する最前線だからだ。本作がこうした先鋭的な場所で議論されることで、不思議な知的化学反応が引き起こされ、あまりにも刺激的な体験だった。

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今回の韓国上映を機に、映画『哲学への権利』の旅は新たな段階に入った。韓国のホテルでは、イギリスとブルガリアの友人から上映依頼のメールが届いた。新たな風景を前にして、多くの同伴者と共に、さらなる旅への誘いを予感せずにはいられない。

   さすらいの旅の想いを乗せて、お前の望みに尽くすために、
   船は来る、遠くこの世の極みから  ―ボードレール「旅への誘い」
[ 2010/09/28 02:11 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】韓国・延世大学(金杭、金洪中、羅鍾奭、藤田尚志)

2010年9月28日、延世大学にて、金洪中(キム・ホンジュンKim Hong Jung,ソウル国立大学)、羅鍾奭(ナ・ジョンソクNa Jonseok,延世大学)、藤田尚志(九州産業大学)とともに、金杭(キム・ハンKim Hang,高麗大学)の司会で上映・討論会がおこなわれた(主催:延世大学韓国学術研究院。70名ほどの参加)。

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今回の主催団体・延世大学韓国学術研究院に触れておこう。韓国学術研究院は韓国政府が主導する18の人文学系高等研究院の重点的支援「韓国人文学(Humanities Korea: HK)」事業のひとつである(年間支援総額200億ウォン(約24億円)、支援期間10年)。韓国では1999年、「BK21(頭脳韓国21世紀事業)」の第1期7か年計画(1999-2005年)が開始され、年間2500億ウォン=約250億円(韓国学術史上、最大規模の研究助成額)が投入され、69プロジェクトが選定された。しかし、BK21は理・工・医系に偏っており、人文社会系が1割程度の採択率にとどまったことへの批判が高まった。そこで、第2期(2006年-)では別枠で新たに「韓国人文学(HK)」事業が打ち出された。HK事業では、若手専任研究員を雇用する人件費を保証すると同時に、10年後の事業終了時には大学の自己努力で彼ら若手を大学の正規教員に組み込むことを条件とする点が特徴である。韓国学術研究院は人文学の危機の克服を目指し、新たに「社会人文学」の地平を構想している。(ちなみに、日本の科学研究費補助金の場合、人文社会系の予算の割合は20%弱。日本でHK事業に相当するものはCOEプログラム〔2001年-〕であろうが、人文系は拠点数12、予算10億円程度と規模は約半分である。)

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(左から羅鍾奭、金洪中)

金洪中氏は、西山と同時期にパリのEHESSに留学をしており、同じ教室でデリダの講義を受けていたという同時代性から語り始めた。映画については、コレージュの教室風景がなく、表札一枚という物質的現実しか映っていない点を指摘。さらに、西山がブランショ研究者であることを考慮して、推測的な仕方で批評を進めた。ブランショはヘーゲル的な弁証法に対して実在物の不在に力点を置く。だとすれば、西山の映画もまた、現実の不在の現前、物質の非実現化との終わりなき対話なのではないか。

藤田尚志氏は、本作の印象を、1)表現手法の旅、2)表現内容・表現主体の旅、3)上映運動という旅という三点から語った。1)思想研究者が文章ではなく映像作品を試みることで、奥行きのある表現手法となっている。2)日本人の研究者がフランス人と対等に対話をし、問題点を引き出している。3)本作は上映運動の形で旅を続けているが、それは作者・西山をも後押しする哲学の根源的な力ではないだろうか。

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(中央・藤田尚志)

ヘーゲル研究者の羅鍾奭氏はコレージュの試みに共感すると同時に、自分なりの哲学擁護を発見することができた、と告白。デリダはヘーゲルの敵だと思っていたが、本作を観て、複雑な仕方でデリダはヘーゲルの同伴者であることが分かったとした。哲学を何かから擁護するとはどういうことだろうか。哲学をその外部から守るというよりも、自分自身で思考する、共同で思考することこそが哲学擁護の本質ではないだろうか。

羅鍾奭氏はさらに、ポストモダン思想はロゴス中心主義を推し進める余りに隘路に陥っている、と批判。無条件性や歓待といったデリダ特有の曖昧さや危険性を回避するために、主体の形成の問題は必然的である。学問の運動性に固執してはならず、制度の組織化と結束力、規律、そして倫理的主体といった主題を忘れてはならないとした。

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(右端・金杭)

金杭氏の見事な司会によって、フロアとの質疑応答は上手く展開された。「自由なブルジョワ、自由なプロレタリアが人文学の学びの場を発展させてきたとすれば、デリダがいう哲学とは誰のためのものなのか。」「〈哲学への権利〉というからには、国家や資本によって奪われている権利なのか。奪い返すべき権利なのか。」「国家の補助金を受けならが自律性を維持するなかには、おそらく熾烈な戦いがあったはずではないか。」さらには、市民団体の方からは、「潤沢な国家補助を受けているHK事業は市民との対話を尊重しているのだろうか」という言葉も飛んできた。神戸大学の院生・人見勝紀さんは、「日本と韓国はともに儒教を知的基盤とし、近代化以降は西欧化にさらされたのだが、こうした歴史性を今日の討論会はどう体現しているのか」と問うた。

韓国学術研究院の院長・白永瑞(ペク・ヨンソ)氏は、本作を観て、韓国の歴史学者のドキュメンタリー映画を製作したくなったと告白。制度の問いに関する映像作品化という発想はこれまでの大学人にはなかった。今回をきっかけに、映像も含めて学問の制度の歴史を検討する学術イベントを積極的に開催するとした。そして、大学制度とも純粋な学問とも異なる「運動」とはいったい何か、と疑問を投げかけた。

藤田氏は、運動としての学問、制度としての学問は対立関係とされてきたが、20世紀の後半以降、とりわけ「脱構築」思想を通じて、両者の相補的な関係が浮き彫りになってきたのではないか、と応答。つまり、運動にも制度的傾向があり、制度は運動の契機を孕むのだ。また、藤田氏によれば、「誰の権利か?」という問いそのものが再考されなければならない。規定の主体から問い始めるのではなく、主体の場や根拠を問い直すことが重要であり、これが「哲学への権利」に込められた含意であると作者・西山の意図を明確にした。

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[ 2010/09/28 01:55 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】韓国・研究空間スユ+ノモN(李珍景、鄭晶熏、宮崎裕助)

2010年9月27日、研究空間スユ+ノモNにて、李珍景(イ・ジンギョン Yi-Jinkyung)、鄭晶熏(ジョン・ジョンフンJeong Jeong Hoon)、宮崎裕助(新潟大学)とともに上映・討論会がおこなわれた。学校教師が引率してきた中学生(?)の団体、日本から駆け付けた学生たちも含めて45名ほどが参加した(韓国の中学生たちは辛抱強く映画を観て、夜遅くまでの討論にも残ってくれて感動的だった)。

スユ+ノモは1997年、若手研究者たちが創設した、大衆に開かれた研究教育のための自律的な生活共同体である。それは理論探究がなされる研究所であり、数々の教育活動が実施される施設であり、研究員の共同生活が重視されるコミューンである。講義室(兼ヨガ室および卓球室)、セミナー室、カフェ、厨房+食堂、勉強部屋などを備えたスユ+ノモが目指すのは学問と生活の適切な調和である。スユ+ノモは2009年に分割され、現在は各々の特色に即して四つのスユ+ノモの拠点施設がソウル市内に点在している。今回の会場はそのひとつ、「スユ+ノモN」である。

参考記事→ 2008年8月【取材記@ソウル】「研究空間スユ+ノモ」の挑戦
http://rightphilo.blog112.fc2.com/blog-entry-15.html

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宮裕助氏は、国際哲学コレージュの最も重要な意義を制度の無条件性にみる。大学はグローバルに進行する市場原理主義の荒波のなかで、競争原理の渦中に投げ込まれている。ならば、既存の大学制度に必ずしも依存することなく、かつ、たんに無関係ではないしかたで介入しつつ、哲学や人文学の名のもとに、思考の無条件な権利を確保することができるのか。

李珍景氏は、映画には教師の一方的な発言しかないが、教室風景や学生の姿とともに、コレージュがいかなる難点に突き当たったのか、具体的な成功と失敗を描き出した方がよかった、と述べた。彼は韓国の歴史的背景にも触れ、金大中および盧武鉉政権時代に政府から支援を受けた団体が、新自由主義的な李明博政権になって支援金を絶たれて苦労した、という事実を挙げた。韓国では制度が政府に対する独立性を維持することが困難で、デリダが示唆する「制度に抵抗する制度」はどの程度可能だろうかと問うた。

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(李珍景、宮崎裕助)

李珍景氏は、スユ+ノモの実践を、制度の内と外を横断し、資本主義や国家には回収されえない外部を創案する愚直で素朴な試みと規定。それは、人文学の学びがもたらす制度からの離脱の誘惑によって、新しい生の方式、コミューン的な生の空間を創出する試みである。彼は、制度から溢れ出てしまう学びに対する欲望の匂い、そうした外部に対する欲望の匂いを感じるがゆえに、国際哲学コレージュに惹かれるとした。本作のエンドロールにも着目し、上映場所と人名が長々と列挙されるが、これは大学制度を超えた運動の証しだと指摘した。

鄭晶熏氏にとって人文学の核心のひとつは物事を問い続ける権利である。その意味で、人文学は到達するべき目的地とは異なる道そのものではないか。状況と条件の変化にしたがって、問いを変化させ、必要な暫定的な解決策を模索する過程的思考こそが人文学である。彼は、日本人がフランスの哲学学校を撮影し、フランス語の映画作品として仕上げているが、この映画は誰に見せるためにつくられたものなのか、と問うた。また、鄭晶熏氏は、人文学を自らの生の主人になる方法を実践的に学ぶことと規定した上で、コレージュにおいて学生たちは何を得るのだろうか、と疑問を投げかけた。

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(左からオ・ハナ、鄭晶熏)

スユ+ノモ研究員のオ・ハナ氏によれば、映画には建物の風景が映されていないが、例えば、教室の掃除は誰がどんな風にしているのか、朝、玄関の鍵は誰が開けているのか、といったことが気になる。スユ+ノモではメンバーが当番制で建物を管理し、食事をつくり、掃除をおこない、会計をおこなっているが、そんな知的共同体ならではの意外な問いだった。

東京大学の学生・近藤伸郎さんは、コレージュとスユ+ノモが経済という点でまったく異なると指摘。スユ+ノモが資本主義の外部を目指すとはいかなる可能性をもつのか、と問うた。さらに、宮崎氏は、在野の知的運動と大学制度圏という二極化が韓国では鮮明であることはよく分かったが、制度(国家や資本)から逃れようとする試みは自己満足的な処方箋にしかならず、逆に制度を補完することになりはしないか、と指摘。これに対して鄭晶熏氏は、制度に包摂されるかどうかという問いは制度の側の問いであって、スユ+ノモ側では気にならないと応答。ただ、新自由主義下で人文学の危機が叫ばれるが、それ以前の時代に果たして人文学はどれほど実り豊かだったのか、内省する必要があると鋭いコメントを加えた。

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コレージュでは学位ではなく計画書だけで誰もがディレクターに応募できる。オ・ハナ氏によれば、スユノモでは教えたいという「意志」によって誰もが講師になることができる。講座を担当するなかで他の人々から厳しい助言を受けながら、教える仕方を洗練させていくという。選抜や意志など、〈教える権利〉の基準とは何か、という論点は興味深かった。

知的共同体の管理運営の現実、教える―学ぶ権利の民主的要素、国家と資本が深く関与する大学制度の外部への希求など、スユノモならではの充実した討論をおこなうことができた。

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[ 2010/09/27 01:25 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】カルチュラル・スタディーズ学会@嶺南大学(本橋哲也、デンニッツァ・ガブラコヴァ、リチャード・レイタン)

2010年6月21日、カルチュラル・スタディーズ学会の世界大会Crossroads(@嶺南大学)にて映画上映がおこなわれた。約25名程度が観賞したが、カルチュラル・スタディーズ(以下CSと略記)に辛辣な場面では会場から軽やかな笑いもおこった。

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映画上映と連動したパネル・セッション「カルチュラル・スタディーズおよび新自由主義的人文学教育におけるその理論状況――制度、我有化、翻訳」では、本橋哲也(東京経済大学)、デンニッツァ・ガブラコヴァ(香港城市大学)、リチャード・レイタン(Franklin & Marshall College)とともに討議がおこなわれた。

映画と関連する論点としては、「ある学問分野が制度化されるとはどういうことか」が議論された。本橋の分析によれば、日本では1980年代の批判理論の受容に引き続き、90年代にCSが本格的に定着する。CS研究は一定の支持を得て、CS専攻の教員が大学にポストを獲得するようになる。CSに関する出版物は続々と刊行されてきたが、しかし、日本ではCSを専門とする学科は存在せず、CSの学会も定期刊行物もいまだ存在しない。それゆえ、CSは大学の既存の学科(社会学、メディア研究、地域研究、比較文学など)の周縁的な位置においてその影響力を行使してきたと言える。

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(デンニッツァ・ガブラコヴァ、本橋哲也、リチャード・レイタン)

かくして、日本では、CSは緩やかなネットワーク的運動としてアカデミズムと在野のはざまで展開されてきた(その成功例は2003年から日本各地で開催されている学術的イベント「カルチュラル・タイフーン」だ)。それは、過度に専門分野化されることなく横断的実践知として効果を発揮すると同時に、大学内に固有の特権的場所をもたない脆弱さという点で曖昧な立場である。日本のCSは制度化と運動のあいだで展開される学問分野の特異な事例であり、この事例は国際哲学コレージュの在り方とも通底するものだろう。

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CSの観点から大学制度をみると、現在、香港やシンガポールではCS関連の学部学科が新設されているという。政府が高等教育への予算を増額して、留学生を引きこむことのできる魅力的な新設学部が次々に生まれているのだ。香港やシンガポールの大学では英語使用が一般的なので、世界中から留学生を呼びやすいという利点もある。いずれにせよ、人材育成や知識資本への社会的投資という点で、大学への期待は高まっていると言えよう。日本では高等教育への公的支援が貧弱だが、研究教育費を出し惜しんでいる場合ではないことを痛感させられた。

香港での2回の充実した上映・討論会を経て、東アジア初の映画上映が終了した。わずか3日の滞在だったが、現地の教授たちからは中国各地の上映の準備には協力するとの言葉をいただいた。今回の香港上映は数年後に開始される中国での巡回上映の始まりにすぎないのだろう。私の意志とは違う力学で、新たな出会いの力に導かれて、映画はさらに旅を続けていく。
[ 2010/06/20 22:32 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】香港中文大学(Chan-fai Cheung, Kwok-ying Lau, Ping-keung Lui, Dennitza Gabrakova)

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香港では街中でも蝉の大合唱が聞こえてくる。日本の8月を思わせる都会のむっとする熱気。屋台やらネオン看板やらアジア的活気に満ちていて、その雑多さがよりいっそう熱気をかき混ぜる。2010年6月19日、香港中文大学にて、同大学のChan-fai Cheung, Kwok-ying Lau, Ping-keung Lui (Hong Kong Society of Phenomenology), Dennitza Gabrakova (City University of Hong Kong)とともに上映・討論会がおこなわれた(司会:Ching-yuen Cheung. 約25名ほどの参加)。

香港中文大学は1963年に創設された公立大学である。丘陵地帯に広大なキャンパスを有し、移動にはスクールバスが不可欠だ。丘の頂上まで関連施設群が並んでいて、建物ごとにエレベータを乗り継いで、上部の施設へと移動することもできる。

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(キャンパス丘の頂上にある絶景スポット)

討論会で、哲学科長のChan-fai Cheung氏は、やや悲観的な口調で、単刀直入に「香港では哲学は死んでいる」と告白した。1980年代から哲学学会を創設して、哲学的な活動を盛り上げようとしてきたが、一定数の聴衆を獲得するには至っていない。たしかに、大学では哲学が講じられてはいるが、それはテクストに即した哲学史の習得に過ぎず、社会と密接にかかわり影響力をもつ哲学は不在であると診断した。

Dennitza Gabrakova氏は、インタヴューィーたちの多声的語りが本作を豊かに構成しているとし、現実のデリダの固有名とコレージュにおけるより曖昧なデリダの名、現実のパリと象徴的なパリのあいだで各人の語りが拡散していると述べた。また、最後のトラヴェリング・ショットで使用される「視覚上のぶれoptical blurring」は、美学的な効果にとどまらず、本ドキュメンタリー作品の認識論的枠組みを提示していないだろうか。それはつまり、コレージュの制度的実践=脱構築という枠組みである。さらにGabrakova氏は吉増剛造の『キ・セ・キ』との類似性に言及し、軌跡と奇蹟のはざまでこそ「出来事」が生じるとした。

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(Ping-keung Lui, Kwok-ying Lau, Dennitza Gabrakova)

1980年代にパリに留学していたKwok-ying Lau氏は、映画を一度観ただけとは思えないほど的確なコメントを網羅的に加えた。哲学にとって制度とは何を意味するのか。フランスでは18世紀の哲学者は大学の外で批判的思考を実践してきた。必ずしも公的制度とは結びつかない哲学者の活躍についてはサルトルの事例を見れば明らかだ。それゆえ、大学の哲学科閉鎖されることはあるだろうが、ソクラテス以来の哲学的な議論は至る所で残り続けるとした。

Ping-keung Lui氏は、香港での哲学の不振について、制度や運動を形作るのは人間であり、人材(育成)が不足してたと付言した。また、もっとも重要なことは、哲学には時間が必要なことだと言葉を締め括った。

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(Chan-fai Cheung〔左〕)

今回は東アジアでは初の映画上映と討論会だったが、香港中文大学の準備のおかげで、香港の哲学の現状を垣間見ることができた貴重な会となった。
[ 2010/06/19 23:40 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】ボルドー第3大学(Eddy Dufourmont)

2010年2月22日、ボルドー第3大学にて、Eddy Dufourmont(同前)とともに上映・討論会がおこなわれた(10名ほどの参加)。

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(ボルドー市はローマ時代からの歴史を誇る中継貿易都市。おもに18世紀に建造された住居や門、広場などが残されている。歴史的な景観が保存されている市街地は散策するのに丁度いい広さ。)

エディー・デュフモン氏からは、国際哲学コレージュの国際性に疑問が提示された。50名中、外国人枠は10名という制限がある。大学では外国人制限はないのだから、コレージュの制限は奇妙に映る。コレージュが哲学の普遍性を探求しようとするならば、その国際性の根本的な問い直しが必要だろうとした。

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また、会場からは「国際哲学コレージュが学位を出さない以上、学生のメリットは何か」、「コレージュの試みは哲学の個人的な営みではなく、制度的な共同性の問いに関わる。映画では創設者のひとりであるデリダがコレージュから個人的には身を引くことでその共同性を守護するという身振りが紹介された。こうした哲学実践の形態や構造を踏まえると、今回の映画作品と監督との関係はいかなるものだろうか」といった質問が飛んだ。

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今後も上映・討論会の旅は続いていく。だがしかし、これはいったい誰の旅なのだろうか? もはやこれは「私の」旅ではない。見知らぬ人々との出会いをも含めた「私たちの」旅になりつつある。さらに言えば、これは何の旅だろうか。敢えて言うならば、哲学への権利と欲望こそがこの旅を前進させている、そんな感慨を抱かざるを得ない。そして、旅の速度と律動は多大なノイズを孕みつつも、次第に豊かなものになっている。

今回のフランス上映に合わせて旅行に来ている学部学生の中真大さん(京都大学)、守屋亮一さん(早稲田大学)、犬塚佳樹さん(東京外国語大学)には上映の準備・運営などでお世話になりました。旅の最後に彼ら若者たちの驚くべき行動力に対して、感嘆と感謝の念を表わしておきたい。
[ 2010/02/22 14:40 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】パリ第8大学(Bruno Clément, Anne Berger)

2010年2月19日、パリ第8大学にて、Bruno Clément(パリ第8大学), Anne Berger(同前)とともに上映・討論会がおこなわれた。冬休み前だったためか、15名ほどの参加にとどまったが、両氏との真摯な討論によってきわめて実り多い会となった。

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アンヌ・ベルジェ氏の的確な要約によれば、国際哲学コレージュでは、「ひとつ以上(Plus d’un)」が追求される。思考が生み出されるのは、ひとつ以上の言語、ひとつ以上の国籍、ひとつ以上の学問分野を通じてだからである。

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ブリュノ・クレマン氏は、デリダが取り組んだ「哲学教育研究グループ」(GREPH:Groupe de Recherches sur l’Enseignement Philosophique)の的確な理解が重要だとした。1970年代、デリダは哲学教育の削減政策に対抗して、GREPHを結成して批判的運動を展開した。ただ、実用的な教育政策方針を打ち出す保守派の力と、デリダに反発する多数の哲学者の力によって、GREPHは行き詰まってしまう。その後、左派政権誕生という転機が訪れ、彼は国際哲学コレージュの創設にこぎつける。「国際哲学コレージュはGREPHの失敗から生まれた」、とデリダは言う。つまり、GREPHという「運動」では成しえなかったことを、「制度的実践」によって達成するにはどうすればよいのか、という問いがコレージュには込められているのである。

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(映画のラストシーンより)

 
映画は最後に、電車の車窓から撮影されたエッフェル塔の二重写しのイメージで終わる。クレマン氏は、この二重のイメージが本作とコレージュとの関係を的確に映し出しているとした。つまり、インタヴュイーが語るコレージュと「本当の」コレージュのあいだで、その理念と現実のあいだで国際哲学コレージュは揺れ動くのである。

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討論を通じて、現在の大学と国際哲学コレージュに共通する同音異義語が指摘された。現在、大学の「自律性(autonomie)」が促進され、資金や運営面で大学の自己責任が問われている。デリダもまた、自律性を考慮に入れているが、それは実現しえない来るべき自己の掟(autos-nomos)としてであるだろう。また、コレージュでは学位(titre)ではなく、応募者の計画(projet)によって、プログラム・ディレクターが選出される。それは、哲学へのアクセス権を保証するための「計画」である。これに対して、現在、研究分野で流行している「計画」は、競争的資金を獲得し、成果を上げるという循環を指す。今日の大学制度を問うにあたって、国際哲学コレージュが試みる諸概念の脱構築が有益であることが確認された。

パリ第8大学上映の準備や運営に関しては、河野年宏さん、柿並良佑さん、水田百合子さんにたいへんお世話になった。心からの感謝を記しておきたい。

[ 2010/02/19 23:10 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

【報告】国際哲学コレージュ(Michel Deguy, François Noudelmann, Boyan Manchev, Gisèle Berkman, Pierre Carrique)

2010年2月18日、国際哲学コレージュと東京大学UTCPの共催イベントとして、パリ2区のCentre Parisien d'Études Critiquesにて上映会がおこなわれた。予定されていた議長Evelyne GrossmanとPierre Zaouiは急遽欠席となったが、映画に登場するMichel Deguy, François Noudelmann, Boyan Manchev, Gisèle Berkmanらが討論に参加した。50名ほどが詰めかける盛会となった。冒頭で西山から映画上映の経緯、映画の趣旨などが簡単に説明された後、参加者全員での討議に入った。

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国際哲学コレージュの別の名
急遽登壇したピエール・カリック(Pierre Carrique)氏は、「コレージュの名を担うのは誰か?」と問い、示唆的な導入をおこなった。

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(ピエール・カリック氏〔右〕)

デリダの言葉によれば、「国際哲学コレージュ」という名はつねに「別の名」を呼び求める。国際哲学コレージュとは、各人が各々の仕方で発することのできる秘められた「別の名」に差し宛てられており、今回の映画はまさにこの「別の名」である。コレージュは国家の補助金を得ている以上、国家権力による我有化の恐れに曝されている。しかし、プログラム・ディレクターが6年ごとに更新されるコレージュは特定の人物によって我有化できない仕組みを有しているとも言える。

哲学のアマチュア性 制度の脆弱性
ボヤン・マンチェフ(国際哲学コレージュ副議長)は、研究者・西山がプロの映画監督ではなく、アマチュア(愛好家)として映画を製作した点がコレージュの精神と共鳴すると指摘。哲学(フィロソフィア)が語源的に「知への愛」である以上、哲学の専門化とは異なる哲学のアマチュア性(愛好性)とは何か? コレージュでは教師の在任期間が6年に限定されているのは、こうしたアマチュアから専門家への移行を考慮してのことではないか。

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(ボヤン・マンチェフ氏〔中央〕)

ミシェル・ドゥギー(パリ第8大学名誉教授)によれば、フランス語で「アマチュア」は「さほど技能をもたない」というニュアンスとともに軽蔑的に響く。ただ、近年、哲学者ベルナール・スティグレールがたんなるamateurisme(愛好主義)とは異なるamatora(愛好者)の復権を積極的に説いているように、繊細な仕方で「アマチュア」の立場を語ることは重要であるとした。

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(ミシェル・ドゥギー氏〔左〕)

また、国際哲学コレージュは、6年毎にすべての教師が更新される点で脆弱な制度である。それは、力が同時に脆弱さでもあるという独特の原理であるだろう。ただ、創設以来、数十年の年月が経った現在、「過度に脆弱にならない力とは何か」に配慮することがコレージュの今日的課題である。

ジゼル・ベルクマン(現プログラム・ディレクター)は、過小評価されるamateurisme(愛好主義)でもdilettantisme(好事的態度)でもない方向を指し示すために、ギリシア語philia(愛情)を再び活性化させることを提案。貴族主義的で郷愁的な共同体ではなく、討議的なphiliaの共同性であり続けることはつねにコレージュの課題であるとした。

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(ジゼル・ベルクマン氏)

また、たしかに、コレージュにおいて脆弱さと力は表裏一体であるが、しかし、この脆弱さは映画のなかでクレマンが指摘するように、特定の時代(ミッテラン左派政権時代)の産物である。人間性に必要不可欠な脆弱さが配慮された時代と言ってもいい。ところが、新自由主義的な風潮が高まる近年、高校教師がコレージュで教鞭をとるための兼務許可制度が廃止され、高等研究省の施設利用は「治安上の理由」で拒否され、コレージュは困難に直面している。そうした状況において、こうした「危機的だが批判的な場lieu de critique」をいかに確保するのかは今後の課題である。

フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学)は、ロラン・バルトを参照しつつ、「専門家とアマチュアは異質なもので、アマチュアはたんに技量の低い専門家というわけではない」と言葉を継いだ。集団的なアマチュア主義を想像することは難しい。アマチュアとはむしろ個人的な営みである。コレージュがアマチュア的だとするならば、各人の愛好の律動をいかに維持するのかがこの制度の掛け金となるだろう。

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(フランソワ・ヌーデルマン氏〔左〕)

国際哲学コレージュ(から)の実践
ドゥギー:明らかに、大学改革は似たような仕方で、フランスでも日本でも、ともかく世界中で進展している。日本の大学改革を目の当たりにして、国際哲学コレージュの事例を引きながら、あなたは何をしようとしているのか。組合でも創設しようというつもりなのか。

西山:映画上映の際に、「あなたは国際哲学コレージュのようなものを日本で立ち上げるのか?」と質問されることがある。新たに制度を創設することだけが実践的な解決とは言えない。数々の上映と討論を通じて、つねに移動しながら、さまざまな人が集う議論の場をその都度、つくっていきたい。

マンチェフ:批判的な場を開くという意味では、今回の映画にコレージュの敵対者を登場させてもよかっただろう。また、過度のナルシシズムに陥らないために、「国際哲学コレージュの批判的な在り方が今の時代の国際性に適合しているのかどうか。現在の資本主義や新自由主義化する大学の論理と同じ程度の質しかもっていないのではないか。コレージュは本当に、市民社会に目を向けた制度であり続けているのか」と自問する必要があるだろう。フランスでは若者の哲学離れが進んでいるが、コレージュは若者を惹き付ける魅力をもつことができているだろうか。コレージュは今もなお、真に革新的な形を模索しえているだろうか。

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フランスにおける哲学の現状――大学/在野
ヌーデルマン:その通り。1983年の創設時、コレージュは既存の大学に対抗していたが、大学の現状は激変している。哲学志望の学生はこの20年で1/3弱に激減しており、大学の哲学科はもはや哲学の強固な権威的中心ではない。市民大学、監獄や病院での哲学的セミナー、哲学カフェ、哲学雑誌などの方がむしろ幅を利かせている。コレージュは大学の権威に対抗するのではなく、そうした哲学の市民的活動のなかで自らの立場を見出さなければならない。

ベルクマン:現在の時流のなかで、コレージュが失われた社会的存在感を回復するべきかどうか、これは容易には答えられない巨大な問いだ。逆に、コレージュは批判的な抵抗の場として維持されるべきなのか。私見では、前衛的で最先端の研究セミナーが実施されていれば、たとえ聴衆が3-5名であったとしても存在意義はある。ちなみに、来年度から哲学と教育、伝達に関する国際共同研究がコレージュ内で促進される。

マンチェフ:いや、時流に迎合すればいいと言いたいわけではない。もし批判的な思考があるとすれば、それは批判者が自己変容する限りおいてである。規定の場を固守するだけでは抵抗は生まれない。

ベルクマン:もちろん。参加者人数に関して言えば、3-5名、20名、数百名といたさまざまな幅のある場があることが重要で、そうした多様性が研究教育の豊かを生み出す。

会場からの介入:さきほど西山氏が言ったことには賛成で、運動形態としてのコレージュというのは効果的ではないか。

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「抵抗」とは何か?
ヌーデルマン:「抵抗」という言葉を発するだけでは単純すぎるのではないだろうか。何かを攻撃するというよりも、国際哲学コレージュは、伝統的な大学制度では受け入れられない研究教育のための避難所(アジール)として機能してきたのだから。現在、推進されている高等教育機関の「自律性(autonomisation)」に抵抗するというだけでは単純すぎるのではないか。もちろん、自律性とは巧みな罠で、公的サーヴィスを効果的に縮減するための修辞にすぎない。こうした潮流に抵抗しなければならないのは事実だとしても、抵抗という仕方だけに甘んじていてよいのだろうか。

ベルクマン:もちろん、私は「抵抗」と言ってもたんに否定的な意味ではなく、積極的で生産的な意味で用いている。

マンチェフ:創設以来、コレージュは大学の周縁で活動していたが、現在、大学そのものが効率化の論理に押されて危機的状況にある。コレージュにできることは、教育のあるべき形を探求し、哲学と教育の関係を問い直すことだろう。

ヌーデルマン: コレージュでの討議的な共同性は集団的な活力を獲得するかもしれないが、しかし、戦争状態に陥る恐れもある……。

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今回の討論会では映画出演者が集ってくれて、忌憚のない議論を交わすことができた。ただ、会場に国際哲学コレージュの現プログラム・ディレクターは足を運んでおらず、話題になったコレージュの集団的な活力の不在が深刻であることをうかがわせた。パネリストが矢継ぎ早に発言する形で議論は進展し、批判的な意見も含めて、コレージュの存在意義を問う貴重な機会になった。質疑応答の時間は設けられなかったが、ときおり会場から自発的な介入があって、檀上とフロアでの討議が知らない間に展開される点が刺激的だった。

今回の国際哲学コレージュでの上映と討論会において、本映画はコレージュの「現実」と交錯したことになるのだろう。本映画ではむしろコレージュの「理念」、とりわけデリダの研究教育の「理念」が意図的に描き出されている。理念と現実が交差したパリでの上映・討論会を経て、本作品は今後、おそらく、さらに異なった生命と律動で躍動し始めるだろう。

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[ 2010/02/18 23:10 ] 上映報告(海外) | TB(0) | コメント(-)

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